■S:今日の聖書の言葉
ヨハネの福音書9章39節(アモス書3章)
★そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
■O:今日のコラム
今日の箇所をリビングバイブル訳で見ると、とても分かりやすかったです。
すると、イエスは言われました。「わたしがこの世に来たのは、心の目の見えない人を見えるようにするため、また、見えると思い込んでいる人に、実は盲目だということを、わからせるためなのですよ。」ヨハネによる福音書 9:39 JLB
① 心の目の見えない人
② 見えると思い込んでいる盲目の人
この2人の人がいるそうです。どちらにせよ、見えていないのです。私たちが盲目であることを、イエス様は教えてくださっています。そしてそれは、私たちの肉の目ではなくて、心の目のことです。
このヨハネ9章では、実際に目が見えない、盲目の人がでてきました。私たちは肉の目は盲目ではないかもしれません。
でもイエス様の言われる「目が見えるようになる」とは、実際的に物事を見る肉の目ではなくて、「心の目」が見えているかどうか、だということを覚えたいと思います。心の目で見るべきもの、それこそが、私たちが見るべき大切なものだ、ということです。なぜなら、
見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。IIコリント4:18
御言葉を読む中で、私は二通りの読み方に分かれるんじゃないかな、と思いました。
善悪の木を選ぶのか、いのちの木を選ぶのか、です。
また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。マタイ7:3-5
私たちは、御言葉の剣をもって、自分自身を刺すのではなく、隣人を刺してはいないでしょうか。いつのまにか隣人を善か悪か判断し、裁く材料になっていないでしょうか。
「私は御言葉を通して善悪を判断できるのだ」と。
私たちは見えていると思っているんです。
でも実は、本当に大切なものが見えていないのです。御言葉を通して、いのちを見いだすのではなくて、善悪を判断する情報を見いだしてしまっている危険性があるのです。
イエス様は、私たちは盲目であると言われます。そのことを悟り、認め、悔い改めなければなりません。
■A:考えてみよう
主の憎むものが六つある。いや、主ご自身の忌みきらうものが七つある。高ぶる目………… 箴言6:16.17
主の嫌われるものの一番初めにあるのが、高ぶる目です。私たちが御言葉を読むときに、私たちの目が高ぶっているなら、上辺だけの文字だけを情報として掴み、本当に大切な父の心を悟ることができません。私たちは今日、悔い改めをもって主の御前に進みゆき、イエス様の血潮により、主を見るきよい目、いのちを見いだす目を受け取りましょう。
■P:祈り
愛する神様、これをしたら罪である、これをしたらきよい、などと律法的に、高ぶる目をもって、善悪の判断により御言葉を読んでいたことを悔い改めます。
あなたご自身を見るために、私の目をきよめてください。
御言葉を読むときに、人を判断する善悪の木を選び取ることがありませんように。目に見える物事を判断するのではなく、目に見えない父の心を悟ることができますように。
神のことばであり御言葉なる方、いのちの木であられる方、イエス様ご自身と出会うことができますように。
真理の御霊、知恵と啓示の御霊であられる聖霊様、あなたを歓迎し続けます。我が心の目を開いてください。真理を悟らせてくださり、私に自由を与えてくださる主をほめたたえます。
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 あい 】
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