■S:今日の聖書の言葉
ヨハネの福音書6章48節(ホセア書14章)
★わたしはいのちのパンです。
■O:今日のコラム
このシンプルなみことばに、どれだけの奥深さがあるか考えたことがあるでしょうか。この、ヨハネの福音書6章全体は 71節という、比較的ながい章になっています。その中で語られていることはパンに関して書かれています。
4節には
「さて、 ユダヤ人の祭りである過越が間近になっていた。」
と書かれています。一見、パンと過越しの祭りは何のつながりがあるのかと思うかもしれませんが、これらは非常に密接につながっています。過越しの祭りではパン、正確にはパン種の入っていないパン(マッツァ・マツォット)が出てきます。また、過越しの祭りの次の日から一週間続く祭りではパン種を入れないパンの祭りが開催されます。これらは、罪を象徴するパン種の入らないパンを食べることによって、混じりけのないみことばだけを食べるということを象徴しています。
また、30節からは出エジプトの時のマナのことが書かれています。マナとは、イスラエルの民が荒野で40年間さまよっていた時に、毎日天から降ってきたパンです。これは日ごとに新しい神様から与えられるみことばを象徴しています。
そして53節からは人の子の肉を食べ、そして血を飲むということが書かれています。これを表面的にとるなら、人食い人種のようになってしまいます。しかし、このみことばはそのようなことを言っているのではありません。これは、イエス様の口から出るみことばを食べるということを言っています。そして、イエス様の命にあずかるということです。
この事を聞いて、多くの人達はイエス様につまづきました。それは、ユダヤ人にとって血は命であり、血を飲むことは律法で固く禁じられています。
それでは、イエス様は律法をやぶれと言っているのでしょうか。決してそんなことはありません。マタイの福音書5章17-18節にはこのように書かれています。
「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。 廃棄するためにではなく、 成就するために来たのです。 まことに、 あなたがたに告げます。 天地が滅びうせない限り、 律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。 全部が成就されます。」
イエス様は生きたトーラー(律法)、また、律法が受肉して形となってこられたお方です。イエス様こそ律法であり、また、唯一完全に律法を守ることのできるお方であり、律法を成就するお方です。つまり、旧約聖書にかかれてあるみことば一つ一つを完全な形で解き明かして下さったお方です。
イエス様はヨハネの福音書14章6節でこのようにも言われています。
「イエスは彼に言われた。 「わたしが道であり、 真理であり、 いのちなのです。 わたしを通してでなければ、 だれひとり父のみもとに来ることはありません。」
イエス様こそ私たちの道、真理、命です。真理とは覆いを取り除く、ベールを取るという意味があります。つまり、イエス様を通してみことばを読むなら、覆いが取り除けられていくのです。
もし、私たちがみことばを額面通りそのまま読むなら、理解できないことだらけになるでしょう。しかし、私たちには聖霊様が内に住んでくださっています。このお方こそ、私たちを教えるまことの教師です。みことばに聖霊様の息吹がかかるなら、そのみことばは生きたものとして私たちの魂を養います。
「御霊に仕える者です。 文字は殺し、 御霊は生かすからです。」(コリント人への手紙 第二 3章6節 後半)
聖所の中にもパンの台(みことば)の正面には金の燭台(聖霊様の光)が置かれていました。そして、イエス様はベツレヘムでおお生まれになりました。ベツレヘムとは、ベイト・レッヘムという二つの単語がつながってできた町の名前です。そのヘブライ語の意味を記すなら、「パンの家」です。イエス様はパンの家でお生まれになったいのちのパンなるお方です!
私たちはみことばの変わらない事実(ロゴス)をしっかりと理解したうえで、命と自由をもたらす命の息吹(レーマ)をうけて、みことばを読んでいきましょう。
■A:考えてみよう
ヨハネの福音書6章66節には「こういうわけで、 弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、 もはやイエスとともに歩かなかった。」と書かれています。(この箇所が666と言うのは偶然ではないのではないかと思います)イエスと共に歩まないとは、これはもはや反キリストです。終わりの時代は大きな揺り動かしがあります。大水が打ち付けてもびくともしない家を建て上げるためにも、救いの岩であるイエス様のみことばにしっかりと土台を据えていきましょう。
そのためにどのようにすればいいのでしょうか。本当にシンプルです。毎日みことばを読むことです。その際、黙読でなく音読することをおすすめします。そして、みことばを読むことになるべく多くの時間を裂くことができるよう、自分の時間を見直しましょう。様々な言い訳があるかもしれません。しかし、第一のものを第一とする生活をおくることが今、本当に切実に求められているのではないかと思います。主のために命を捨てるものは生かされます。主のために時間の犠牲を捧げるものは主からのあり得ないほどの報いを受けると信じます。
もし、みなさんがみことばの朗読を毎日続けていくなら、主の命を体験していきます。たとえみことばの意味がわからなくても、毎日続けるのです。そのことで主への忠実さを学ぶことが出来ます。そして、みことばの朗読を続けるなら、必ずどこかで打ち破りがやってきます。みことばが今までにない領域で開かれていきます。
みことばに飢え渇いて、みことばに口づけする勢いでみことばに親しみましょう。聖霊様に節に願い求めましょう。みことばが皆さんを永遠の命の義の道へと導くことを祈り願い求めます。
■P:祈り
皆さんのうえに、知恵と啓示の御霊が注がれますように、そのことによって、神をはっきりと見ることが出来ますように。
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 しゅん 】
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