■S:今日の聖書の言葉
ヨハネの福音書2章23~25節
★イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行なわれたしるしを見て、御名を信じた。
しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、
また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。
■O:今日のコラム
イエス様が行った数々のしるしを通して、エルサレムにいた多くの人々がイエス様を信じました。しかしイエス様は、ご自身を彼らにお任せになりませんでした。
23節の「御名を信じた」という「信じた」という言葉と、24節の「お任せにならなかった」という「任せる」はギリシャ語では同じことばが使われています。つまり、彼らはイエス様を信頼したけれど、イエス様は彼らを信頼されなかったのです。なんだか悲しいですね。
その理由とは何でしょう。彼らが「しるし」そのものを信じていたからではないでしょうか。もちろん、しるしを見て信じるのは素晴らしいことです。しかし、それ以上に、イエス様が語られた言葉、みことばそのものを信じることは、もっと重要なことです。
「それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。」(22節)
弟子たちが「聖書とイエス様の言われたことば」を信じた信仰と、「しるしを見て」信じた信仰。これには大きな違いがあります。それは、イエス様との信頼関係です。
主は、聖書のみことばを信じ、堅く立ち、状況や感情に動じることなく信じる者に、ご自身を任されます。しかし、しるしという現象を強調して求める者には…今日のみことばにある通りです。
私たちは多くのしるしを生活の中で見ます。イエス様が生きて働かれていることを状況の中で見ます。けれども、そればかりを見るならば、いつも状況に振り回されてしまいます。たとえ理解出来ないことがあったとしても、先が見えなくとも、素直に信じ、みことばに信頼を置くのです。これこそ主に喜ばれる信仰です。
主に信頼され、任せられる者となるために、日々、聖書のみことばに信頼を置き、従順していきましょう。終わりの時には、聖書やイエス様の言われたことを信じるのではなく、しるしそのものを信じる人たちが現われます。「理屈」というしるし。「感情」というしるし。「状況」というしるし…。これらのしるしに振り回されず、聖書のみことばに堅く立ち続けましょう。イエス様ご自身がもっとも確かなしるしなのですから。
ルカ11:29~30
…「この時代は悪い時代です。しるしを求めているが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。というのは、ヨナがニネベの人々のために、しるしとなったように、人の子がこの時代のために、しるしとなるからです。」
■A:考えてみよう
主との信頼関係をみことばを通して築いていきましょう。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 ひさえ 】
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