■S:今日の聖書の言葉
雅歌5章2-8節(ヨハネの手紙 第一 1章)

★私は着物を脱いでしまった。どうしてまた、着られましょう。足も洗ってしまった。どうしてまた、よごせましょう。
私は起きて、私の愛する方のために戸を開けました。私の手から没薬が、私の指から没薬の液が、かんぬきの取っ手の上にしたたりました。

(上記は3、5節のみ)

■O:今日のコラム
ご存知の通り、雅歌には花婿と花嫁が描かれ、花婿は主、花嫁は私たちクリスチャンまた教会と解釈して私たちは呼んでいると思います。
それを踏まえて、今日の箇所を見ていきたいと思います。

5:2で、主は私たちに「戸をあけておくれ。」と呼びかけます。

花嫁は、着物も脱いで、足も洗って完全に寝ようとしていたのに、とすぐに答えることはできませんでした。(5:3)

すぐに答えられないのは、それは主から言われたことが予想外なタイミングだったからです。
自分のしようとしていたことと、主から言われることや主が私に求めることが全く違ったからです。

当時は、また足を洗うなんて少し手間のかかることだったと思います。

いや、神様、私ここに来るまで、この状況に至るまで、◯◯してきたんですよ、また◯◯するなんて、どうしてですか。と思う気持ちとも同じかもしれません。

それでも、花嫁はやっぱり花婿に答えて、起きて戸を開けに行きます。(5:5)

それは、たとえ最初は主から言われることが嫌だと思ってたとしても、すぐには応答できなかったとしても、主への愛は全く冷めていない為、主に応答するのです。
たとえ主から求められることや主が私にしてほしいことが自分の思いと違うことでも、自分の求めることと違うことであっても、自分のタイミングと違うことであっても、主への愛が花嫁である私たちの心を動かし、主に答えていくのです。

その主への愛は、雅歌1-4章の中で主の私たちに対する愛を受け取っとっていたことから来るものだと思います。主との甘い親密な時間を過ごしていたから、そして主からの自分に対する愛のことばを、主の御声、御言葉を聞いたから、主がどんなに私を愛しておられ、主がどんなに愛せずにはいられない方であるかを知り、主に恋に落ちていたからでしょう。

そのため、今自分がいたい場所、自分のタイミング、居心地のいいところ、自分の思いや求めることを脇に置いて、花嫁は花婿イエスの招きに答えられました。そして、主に従った花嫁の手からは没薬が流れました。

手は行動、行いを意味します。また没薬は埋葬の時に使うもので、自分に死ぬことを意味しています。

花嫁の行動が、自分の肉の思い、自分の求めること、自分のタイミングや計画に死んでいたことを表しています。また、行動が主への心からの信頼から来る信仰の行いであることを表しています。

しかし、花婿は自分に死に主に従ったのに、花婿は背を向けて去っていきました。

主の臨在はなくなってしまったような状況でした。

そこには、主はいませんでした。主が見つけられないような、主が
見えないような状況だったのです。

主に呼び求めても、答えがないような状況だったのです。主が答えてくれなくなったというような状況だったのです。

5:7は、「リーダーたちに自分の働きやミニストリーが否定・拒絶されること」とIHOPのマイク・ビックル師は解釈していました。
主に従ったのに、リーダーや上司に自分の働きを反対・批判されること、また主に従ったのにその働きを失うことをも意味しているかもしれません。

主に従ったのに、人々から批判され、傷つけられることかもしれません。

かぶり物をはぎ取られるとは、自分のプライドが取られるようなこと、プライドが傷つけられるようなことかもしれません。

それでも、花嫁の花嫁に対する愛は全く変わりませんでした(5:8)

。むしろ、その後の花嫁の花婿に対する思いの告白を見れば分かるようにどんなことがあってもどんどん増し加わっていったのです。

花嫁は主に従いましたが、呼んでも答えがない状況でした。(5:6)

神様は時には、私たちに何かの答え、私たちが求めている答えを言う変わりに、私たちがどのように考えるべきか、花嫁また神の子としての考え方や価値観、アイデンティティーを教えることがあると思います。

花嫁としての考え方、価値観、アイデンティティーがあるから、そのような状況になっても花嫁が持つ花婿なる主への愛、信頼は変わらなかったのです。

花婿である主が私をどう思っているかを聞いて知っているから、花婿である主の私への愛を味わい知っているから、

たとえ主に呼んですぐに答えがなかったとしても、
主に従ったのに自分の想像と違うような結果や状況になっても、
プライドが傷つけられても、
働きや評価がなくなったりしても、
批判や反対を受けても、
人々に傷つけられても、

愛に病んでいる花嫁にはそんなことは全く関係ないことだったのです。

愛に病んでる花嫁には、そんなことは全然平気なのです。
愛に病んでる花嫁には、花嫁しか見えていないから、花嫁を求めてやまないから、
状況的に花嫁の声が聞こえる聞こえない、見える見えない関係ないのです。

「愛に病んでる」とは、そのような言葉だと思います。
状況も、自分の思いも、人の言葉や評価も、すべて関係なくなるほど、主に愛され主を愛していることだけを握っている状態です。

■A:考えてみよう
主は今の私にとって、「愛に病んでいる」とは簡単に言えない言葉であることを知っておられます。

それでも、状況や感情や何にも左右されない主への信頼と、主の愛を握るようになりたい思いがあることも知ってくださっています。

主の愛と主を知ることをまず求めます、主との親密さを心から求め、主の御言葉を聞くことを求め、
どんなことにもどんな状況によっても左右されない、主への信頼と愛とを持つことができますように、私の行動が主とは違う自分の思いに死んだ信仰の行動となり、私の手から没薬がしたたるようになりますようにと、今朝新しく主に求めます。

■P:祈り

私を愛してやまない花嫁なるイエス・キリストの御名によてお祈りします。
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 ありさ 】

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