■S:今日の聖書の言葉
テモテへの手紙 第二 3章1-5節(ヨエル書2章)
★終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。
そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、
情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、
裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、
見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。
■O:今日のコラム
敬虔とは何でしょうか?
「敬虔」という言葉を原文で見ると、「eusebeia(ユーセベイア)」というギリシャ語が使われています。
この言葉の意味は、「神様の物事、事柄に対する人の内側の応答」という意味があるそうです。
つまり、「敬虔」とは「神様に対する心の応答」のことであると考えられます。
そして、この「敬虔」は、神の人が正しさ(義)、信仰、愛、忍耐、柔和とともに、熱心に求めるべきものであることが1テモテ6:11に書かれています。
神様への心からの応答をすること、敬虔を持つことを、私自身望んでいます。
敬虔は神の人が熱心に求めるべき良いものでありますが、今日の箇所2テモテ3:5
には「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者」となってしまうことへの注意が書かれています。
見えるところの敬虔、つまり見た目だけの敬虔、うわべだけの敬虔があるということです。
そして見た目、うわべだけの敬虔を持つならば、その実を否定する者となると書かれています。
「その実を否定する者」とは、「その力(デュナミス)を否定する者」と原語の聖書には書かれています。
敬虔は神の人が熱心に求めるべき良いものであるのに、うわべや見た目だけの敬虔で神様に対して心からの応答がないのならば、見た目や行いだけで心からの応答がないのならば、本来の敬虔=神様に対する心の応答をすることで、神様からくるそのデュナミスの力、奇跡的な爆発的な神の力を否定する者であるということです。
この箇所では、そのことに対する終わりの時代への警告が書かれているのですが、敬虔は神の人が熱心に求めるべき良いものですから、見た目やうわべの敬虔ではなく、見えるところの敬虔ではなく、真の敬虔を持つ者となりたいと私は願っています。
今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益だからです。(1テモテ4:8)
満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道だからです。(1テモテ6:6)
「肉体の鍛練もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。」(1テモテ4:8)
肉体と鍛練(頑張って何かをすること、頑張って断食すること、頑張って何時間も祈り続けること…etc. )もいくらかは有益ですが、「今と未来のいのち=唯一のまことの神とイエス・キリストを知ること=神様との親密さ、親密な交わり」につながる神様への心の応答をする敬虔こそがまず大事なのです。
神様が見ているのは、私たちの心だからです。
神様が求めているのは、見た目やうわべの行いよりも、私たちの心の応答だからです。
見えるところの敬虔は、人が評価するものです。
心を見られるのは神様だけで、人はうわべや見た目を見るので、人は見えるところの敬虔を見て、評価するかもしれません。
見えるところの敬虔をするなら、人に評価されるかもしれません。
しかし、神様は見えるところの敬虔ではなく、心の応答である心の敬虔を見ます。
神様への心の応答である敬虔、真の敬虔は、ときには人には見られないもの、人には評価されないものかもしれません。
しかし、神様の心の応答、敬虔は神様が見ています。
神様がそれを評価しています。そして、神様がそれを求めておられます。
そして、状況や周りがどうであっても、神様への心からの応答をし続けるならば、神様はそれを見て、神様のデュナミスの力を私たちに注ぎ、その神の力を必ず経験することになることを信じます。
■A:考えてみよう
神様への心の応答をする、神様に対する心からの応答を行い続ける。
何かの行いに励むよりもまず神様に心を捧げる。
うわべや見た目の敬虔ではなく、心からの敬虔を熱心に求める。
心からの応答を持って、心の伴った行いになるように、何かを頑張ってする前に、神様への心の応答をして、神様の力を受けて、何かを行うようにする。
■P:祈り
(神様に心を捧げ、心から御前に出て祈る)
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 ありさ 】
オンライン献金はこちらから。
大きな額の献金は手数料の少ない口座振り込みをお勧めいたします。