■S:今日の聖書の言葉
サムエル記 第二 21章1-2節(同22章)
★ ダビデの時代に、三年間引き続いてききんがあった。そこでダビデが主のみこころを伺うと、主は仰せられた。「サウルとその一族に、血を流した罪がある。彼がギブオン人たちを殺したからだ。」
そこで王はギブオン人たちを呼び出して、彼らに言った。
・・ギブオンの人たちはイスラエル人ではなく、エモリ人の生き残りであって、イスラエル人は、彼らと盟約を結んでいたのであるが、サウルが、イスラエルとユダの人々への熱心のあまり、彼らを打ち殺してしまおうとしたのであった。・・
■O:今日のコラム
ダビデの揺るぎない王権が確立したときに、思わぬところから問題が起こりました。
それは飢饉です。飢饉は主の裁きを表します。
申命記には『畑に多くの種を持って出ても、あなたは少ししか収穫できない。いなごが食い尽くすからである。ぶどう畑を作り、耕しても、あなたはそのぶどう酒を飲むことも、集めることもできない。虫がそれを食べるからである。
あなたの領土の至る所にオリーブの木があっても、あなたは身に油を塗ることができない。オリーブの実が落ちてしまうからである。』(申命記28章38-40節)とあります。
ダビデが主に伺うと、その原因はサウル王の時代に同盟を結んでいたギブオン人を殺したためでした。それは、サウル王の民への熱心から出たものであったと記されています。
人に対して熱心なことは良い事です。しかし、その土台に主への熱心が無ければ主の願いに叶うことは無く、むしろ罪におちいる事になります。
クリスチャニティーとヒューマニズムは違います。
主は『隣人を自分自身のように愛しなさい』と言われましたが、それに優先してまず『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい』とも言われています。
私達が愛に生きるとき、その人のニーズを満たし、その人に喜ばれる事、その人に助けとなることを心がけます。
しかし、そこに主がいなければ、その人の心の目に主が写っていなければ、この罠におちいります。
それは、人の目にも良い事、自分の目にも良い事に映るのですが、それが主の目にどう映るかこそ大切なのです。
主の喜びとなることを求めて、人に親切にするとき、第一の戒め(神を愛する)と第二の戒め(隣人を愛する)を全うすることができるのです。
■A:考えてみよう
いつでも主の笑顔を求めて、人に愛を示そう。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
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