■S:今日の聖書の言葉
サムエル記 第二 1章23節(同2章)
★ サウルもヨナタンも、愛される、りっぱな人だった。生きているときにも、死ぬときにも離れることなく、わしよりも速く、雄獅子よりも強かった。
■O:今日のコラム
私達は自分を傷つけた人に対して良い評価をするという事は難しいものです。
その人々への不満や批判を言う事は簡単でも、その人に対する良い評判を聞く事や、自分自身がその人を高く評価するという事は、生まれながらの私達の性質ではなかなか出来ません。
しかし、今日の箇所でダビデは、自分を最も苦しめ命までも狙って追いかけ続けたサウルを高く評価しています。サウルは「愛される、りっぱな人だった。」と言っています。なぜこの様に言う事が出来たのでしょうか?
それはダビデの目がどこに向かっていたかに関係しています。
ダビデの信仰の目は傷ついた自分の感情でも、傷つけた相手でも無く、神様へと向かっていました。そこに全ての現実を超えて赦す力が与えられたのでした。
先日、台湾のカンファレンスに参加し、その中でビルジョンソン師が牧師だけを集めてリーダーシップについてシェアして下さいました。
ビル師は世界中で働きをする忙しい牧師ですが、ある時、外の教会で働きをしている時、一人の牧師が自分の教会でメッセージを担当していました。
彼はメッセージの中で一つの映画の映像を使用したのですが、その映像をよくチェックしないで流したそうです。すると見せたかった映像の後に、決して教会では流せないようなひどい映像が入っており、それが教会全体に、そしてインターネット放送を通して全世界に流れてしまったそうです。
この報告をビル師が聞いた時、心の中では「なんでそんな事が」と怒りの思いを感じました。
しかし主を見上げる中で、神様の愛による視点が与えられ、その牧師も十分に自分の失敗に反省と恥ずかしさを感じていたので、それ以上彼を苦しめたく無いと思い、帰ってまず最初に彼に言った言葉は「来週もメッセージをしてくれるかい。」という一言だったそうです。
私達が自分を傷つけた人、失敗した人に何度でも神様にあるチャンスを提供する事が出来るのは主に目を向ける事から始まります。共にイエス様に私達の目を向け続けましょう。
■A:考えてみよう
今日私達の心のフォーカスを主に向けましょう。主のもとには絶えず平安が用意されています。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 しんご 】
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