■S:今日の聖書の言葉
ルカの福音書9章23,24節(箴言9章)
★イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。 自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。
■O:今日のコラム
「イエス様についていきたい。」
今日もそのような心を、聖霊様が与えてくださる事を感謝します。
イエス様はご自身についてくるもの、ご自身を一生懸命求める者を喜ばれます。(11節)
群衆は、イエス様についていきました。そして、いやしを体験し、奇跡を体験し、(5つのパンと2匹の魚) 食べて満腹します。
後に、イエス様は弟子達に聞きます。「わたしのことを誰だと言っていますか。」(18節) 群衆の答えは
「バプテスマのヨハネだ。エリヤだ。昔の預言者が生き返ったのだ。」
弟子の答えは「神のキリストです。(メシヤです)」
「弟子」と「群衆」の違いは何だったのでしょうか。
群衆もイエス様についていきました。でも、なぜ群衆は目が開かれなかったのでしょうか。イエス様が神様だと、メシヤだと、なぜ悟る事ができなかったのでしょうか。
群衆と弟子の違い。それは『最後に何を見いだしたか』その違いにあると思います。
群衆は癒し、奇跡のわざに驚き、ただただそのことに注目していたかもしれません。もちろん弟子も主の御業にびっくりしたことでしょう。でも弟子は、イエス様が誰であるかを知っていました。このお方が唯一の神であるということを知り、神であるが故にこの御業が起こったのだ、と後に知ったのでしょう。イエス様と個人的に出会ったもの、イエス様とは誰なのか知ったもの、ということです。
私は、イエス様の十字架を黙想した時に、
『あなたが私を見る時に、あなたは何を見いだすのか?』そのように問われた気がします。
イエス様についていく、その歩みをしていく時に、私たちは癒し、奇跡、主の偉大な御力を体験するでしょう。このお方が、その力の源だからです。
この終わりの時代、この収穫の時、癒し、奇跡、救い、主の偉大なる御業が、この日本でますます起こっていくことを信じます。
ですが、その中にあってもいつも私たちの心に残るものがイエス様だけでありますように。最後に見いだすものがイエス様でありますように。イエス様ご自身にフォーカスし続ける事ができますように。「あなたを知りたい」という飢えかわきは、これからもずっと消えることがありませんように、と祈ります。
このお方が誰であるかを知る時に、私たちは永遠のいのちを得ます。
その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。
(ヨハネ17:3)
■A:考えてみよう
私たちが最後に見出すものは何か。
「イエスキリストが誰であるか」を見出したものが十字架の道を歩んでいく者となる。
イエスキリストを見いだすとは、結果、「永遠のいのち」を見いだすことである。
なぜなら、わたしを見いだす者は、 いのちを見いだし、 主から恵みをいただくからだ。
わたしを見失う者は自分自身をそこない、 わたしを憎む者はみな、死を愛する。 (箴言8:35.36)
どんなにすごい癒しを体験したとしても、どんなにすごい奇跡を体験したとしても、どんなに必要が満たされてこの地上で幸せになったとしても、永遠の命を持っていなかったら何の意味があるでしょうか。
イエス様が私を見いだしてくださいました。今日、まだイエス様を知らない人々が、イエス様と出会い、イエス様を見いだし、永遠のいのちを得ることができるために、祈り、仕える事ができますように。
■P:祈り
愛するイエス様、日々、自分の十字架を負い、あなたについていくものとさせてください。
私の花婿なるイエス様、あなたを離れて私は何もできません。心砕かれて、もっとそのことを悟らせてください。どんなときも、どんな場所にいても、何が起こっても、あなたを見つめ続けることができますように。
今日新しく、あなたと出会いたいです。今日新しく、あなたがどのようなお方であるか知りたいです。
そして今日、まだあなたを知らない人々が、イエス様と出会うことができますように。癒し、奇跡、自分の必要が満たされる事にとどまらず、イエス様を見いだす事ができますように。唯一のまことの神であるあなたと、イエス様を知り、永遠のいのちを得ることができますように。私を用いてください。
日本の大収穫の時、今がそのときである事を宣言します。
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 あい 】
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