■S:今日の聖書の言葉
ヤコブ書1章23〜25節
★みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。
自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。
ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。
■O:今日のコラム
自由の律法、完全な律法とは、主から愛されているように、人を愛する事です。これは、イエス様が二度も念押しした、新約での戒めであり、旧約の第一の戒めと第二の戒めの二つが一つにされたゆえに完全な律法というにふさわしいものです。「わたしのくびきは負い易く、わたしの荷は軽い」と言われたように、私たちにとって重荷にならない自由の律法でもあり、主とともに負うくびきでもあります。
これが、神の義を実現することの土台です。だから取り上げた聖句の前の20〜22節には、こうあります。「人の怒りは、神の義を実現するものではありません。ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」(ヤコブ1:20〜22)
神に対する負債は別として、人に対して唯一負っている負債である、ともパウロはローマ書に書いています。
「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。」(ローマ13:8)
私たちは、愛されて愛する者として元々作られました。その姿を回復するならば、私たちは祝福されるのです。いえ、本来の姿に回復する事自体が祝福なのです。もし、この戒めを実行しないなら、主によってデザインされた本来の自分の姿を見ていながら、生まれながらの姿に戻っていく事になってしまいます。
■A:考えてみよう
主に愛されているように、人を愛する。特に兄弟を。自分の本来の姿を取り戻そう!
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 まじまこ 】
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