■S:今日の聖書の言葉
歴代誌 第二 5章11〜14節(歴代誌 第二 6章)
★祭司たちが聖所から出て来たとき、 −−列席したすべての祭司が各組の務めの順序にかかわらず身を聖別した。
また、 歌うたいであるレビ人全員も、 すなわち、 アサフもヘマンもエドトンも彼らの子らも彼らの兄弟たちも、 白亜麻布を身にまとい、 シンバル、 十弦の琴および立琴を手にして、 祭壇の東側に立ち、 百二十人の祭司たちも彼らとともにいて、 ラッパを吹き鳴らしていた−−
ラッパを吹き鳴らす者、 歌うたいたちが、 まるでひとりででもあるかのように一致して歌声を響かせ、 【主】を賛美し、 ほめたたえた。 そして、 ラッパとシンバルとさまざまの楽器をかなでて声をあげ、 「主はまことにいつくしみ深い。 その恵みはとこしえまで」と【主】に向かって賛美した。 そのとき、 その宮、 すなわち【主】の宮は雲で満ちた。
祭司たちは、 その雲にさえぎられ、 そこに立って仕えることができなかった。 【主】の栄光が神の宮に満ちたからである。
■O:今日のコラム
ソロモンは父ダビでが指定した場所に、神様のデザインの通りに神の家を建てました。
その後に行ったことは礼拝でした。ここに、終わりの時代の教会の重要な姿が描かれています。
(1)身を聖別する
宮で仕える祭司は自分の身を聖め、それから宮で仕えました。それは律法に規定されているからです。そして、その祭司は当番制で、各組わけがされていました。ルカの福音書を見ると、バプテスマのヨハネのお父さんのザカリヤも当番の時に宮で聖霊様に満たされ預言しました。
「さて、 ザカリヤは、 自分の組が当番で、 神の御前に祭司の務めをしていたが、」
(ルカ1:8)
「さて父ザカリヤは、 聖霊に満たされて、 預言して言った。」
(ルカ1:67)
しかし、この箇所を見ると、祭司の順番に関わらず、全ての祭司が身を聖めたとあります。私たちは王家の血筋を引く祭司とされたものです。(1ペテロ2:9)であれば、イエス様を信じる礼拝出席者は全ての人が祭司です。私たちが礼拝に出席するときは賛美の途中から汗を流しながら礼拝に参加するのではなく、礼拝前から席につき、見言葉を持って悔い改めの時間を持って礼拝に臨みましょう。
(2)天の賛美
ここでの賛美奏者たちは白い亜麻布を着ていました。これは祭司の服装です。そして、黙示録にも次のように書かれています。
「その後、 また私は見た。 天にある、 あかしの幕屋の聖所が開いた。そしてその聖所から、 七つの災害を携えた七人の御使いが出て来た。 彼らは、 きよい光り輝く亜麻布を着て、 胸には金の帯を締めていた。」
(黙示録15章5-6節)
旧約聖書の時代において、彼らはすでに天の賛美をしていました。賛美奏楽者は楽器を演奏する、歌をうたう以前に祭司としてのアイデンティティが必要です。そのためには、礼拝の時間、ステージに出た時だけ賛美者になるのではなく、むしろ誰も見ていない一人の時間に主の前に誠実な礼拝者としている姿勢を持ちましょう。
(3)世代を超えて
歌うたいであるレビ人全員がこの箇所に出てきています。それはダビデの幕屋で仕え続けたベテランの賛美者、アサフ、ヘマン、エドトンも含まれています。それだけではなく、彼らの子ら、そして兄弟たちも共にいました。
ダビデが用意した物を受け継いでソロモンが宮を建てました。アサフ、ヘマン、エドトンが切り開いてきた賛美の道をその子たちが受け継ぎました。他にもモーセからヨシュア、エリヤからエリシャ、イエス様から弟子たちと、世代を超えてバトンが渡された時、それが増し加わっているとう原則を聖書から発見できます。
上の世代の者は主を愛するがゆえに下の世代の新しい提案を受け入れ、また下のものは主を愛するがゆえに勢いだけで進めていくのではなく上の物と相談して進めていく。そのような神の統治の中での世代間の一致が大切です。主の臨在のあるところに神の家族の一致があります。
(4)キリストの花嫁として
ここに書かれている礼拝の姿は、私の願い求める礼拝の姿です。賛美を奏でるもの、そして祭司が大勢いるのですが、それがまるでひとりであるかのように一致しています。これは正に全ての主の御体である異邦人教会とイスラエルが一つとなり、キリストの花嫁となっているような姿です。
これこそダビデの幕屋の成熟した形です。彼らは突然このような礼拝を捧げることが出来たわけではありません。33年間、夜も昼も、誰が見ていようと見ていまいと忠実にダビデの幕屋で仕え続けた結果、この礼拝に至ったのです。
ですので、ダビデの幕屋で行われたように、賛美者だけでなく、120人の祭司も共にいて、ラッパを吹き鳴らしていました。祈りと賛美が一つとされています。これこそ天の礼拝です。
これらの結果、何が起こったでしょうか。主の栄光が宮に満ち、祭司は立っていることも出来ないほどになりました。これこそが「シャカイナ・グローリー」です。「シャカイナ」とは、「シャカーン」という言葉から来ています。それは「臨在」と言う意味です。また、幕屋は「ミ・シュカーン」と言う言葉です。その意味は「臨在の場所」です。
主の臨在のある場所が主の宮です。終わりの時代、私たち一人ひとりが神の宮とされています。
「私たちは生ける神の宮なのです。」
(2コリント6:16)
上に書かれている全ての方法を同じように行えば同じような主の臨在があるとは限りません。しかし、ここから多くのことを学べると思います。それは礼拝に対する姿勢、心の態度です。
私たち一人ひとりが生ける神の宮であるなら、まず、私たちの内を神様の栄光で満たすことをしていきましょう。私たちを聖めるのはみことばです。そして祈りです。
神の栄光に満たされた宮が主を愛するがあまり一つ所に集められ、ただ一点に主だけを見上げて礼拝する時、そこにシャカイナ・グローリーが訪れます。
全ての集まりで、主の教会でこのような礼拝が捧げられることを切に願い求めます。
■A:考えてみよう
自分は主の栄光をお迎えするのにふさわしい器だろうか。
もちろんです。それは聖書がそのように語っているからです。
では、その聖書が語る事と現実のギャップはなんだろうか。
何が私たちの宮を栄光で満たせないようにしているのだろうか。
そのためのキーワードは悔い改めです。
自分のやりたいこと以上に天の父の心を求めて、未だかつて経験したことのないほどの圧倒的な主の臨在の満ち溢れた礼拝を捧げ続けていきましょう。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 しゅん 】
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