■S:今日の聖書の言葉
歴代誌 第一 13章3節(歴代誌 第一 12章)

★私たちの神の箱を私たちのもとに持ち帰ろう。 私たちは、 サウルの時代には、 これを顧みなかったから。 」

■O:今日のコラム
物事には何でも始まりがあります。今日の聖書箇所は、ダビデの幕屋の始まりが記されています。

ダビデはイスラエルの王となり、多くの人がダビデに付き従いました。そこで、ダビデが王として最初に行った事が神の箱、すなわち契約の箱を自分の街に持ってくるということです。

この契約の箱とは、本来、至聖所の中にありました。至聖所とはユダヤの暦で第7の月の10日、贖罪日に大祭司のみが入ることを許された空間です。しかも大祭司は裾に鈴をつけ、足にロープを縛り付けられた状態で至聖所内に恐れつつ入っていきます。神と出会ったものは死んでしまうからです。

契約の箱の蓋の上では、ケルビムが対になっており、その合わさった羽の間に主の栄光が現れるとされていました。つまり、契約の箱は神の臨在をあらわします。「幕屋」という単語も、ヘブライ語では「ミシュカーン」と言い、それは「臨在のある場所」と訳されます。

説明が長くなってしまいましたが、私が何が言いたいかというと、ダビデは主の臨在を自分の街の中心に歓迎することを一番にしたということです。

ダビデは幼い頃から礼拝者であり、羊飼いの仕事を通して勝利の秘訣を知っていました。それは主の臨在を歓迎し、主を第一とすることです。その姿勢は王になっても変わらず、この事がきっかけでダビデの幕屋が建て上げられ、後に息子ソロモンに莫大な遺産を残すことになりました。

それら全てをもたらしたのはダビデの力ではなく、ただ主の力によってです。ダビデは「神の箱を私たちのもとに持ち帰ろう!」と考え、それを実行しただけです。これは、ある意味悔い改めへと通じるものです。

「しかし、 我に返ったとき彼は、 こう言った。 『父のところには、 パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。 それなのに、 私はここで、 飢え死にしそうだ。立って、 父のところに行って、 こう言おう。 「お父さん。 私は天に対して罪を犯し、 またあなたの前に罪を犯しました。」

(ルカの福音書15:17, 18)

放蕩息子も、「そうだ!お父さんのところへ帰ろう!」と考え、それを実行した結果、遠くから父が迎え、くちづけし、新しい服、履物、指輪を与えてくれ、おいしい食事を用意してくれました。

私たちが勝利の人生を歩む秘訣は、主のご臨在を私たちの人生の中心にお迎えすることです。これこそがダビデの幕屋の回復です。

しかし、ここで一つだけ注意があります。

「ダビデと全イスラエルは、 歌を歌い、 立琴、 十弦の琴、 タンバリン、 シンバル、 ラッパを鳴らして、 神の前で力の限り喜び踊った。
こうして彼らがキドンの打ち場まで来たとき、 ウザは手を伸ばして、 箱を押さえた。 牛がそれをひっくり返しそうになったからである。
すると、 【主】の怒りがウザに向かって燃え上がり、 彼を打った。 彼が手を箱に伸べたからである。 彼はその場で神の前に死んだ。 」

(1歴13:8-10)

神の箱が街に戻ってきた時、人々は歓喜に浸り、喜びの声を上げ踊りました。しかし、その時突然ウザが神に打たれて死んでしまいました。なぜでしょうか。ダビデは契約の箱を最新の車で街にまで持ってこようとします。それを率いたのはウザとアフヨでした。これは主の願われる方法ではありませんでした。ウザは打ち場で契約の箱が落ちそうになるのを支えた結果、神に打たれて死にました。「ウザ」とは「力」と言う意味があります。また、「アフヨ」とは「民衆」という意味があります。人の力で主のご臨在を持って来ようとする時、主の怒りが下るのです。

どうすれば神様に打たれないのでしょうか。そのためには、律法の書、つまり聖書のみことばを良く理解する必要があります。恐らく、この事件を通してダビデは必死に律法の書を調べたのではないでしょうか。そこにはレビ人が棒を担いて神の箱を運ぶという事が書かれていました。そして、ダビデはそれに従順しました。(1歴15:2)

気をつけてください。「なんとなく臨在の雰囲気があって素晴らしいから」とか「派手な演出、素晴らしい賛美の演奏で興奮するから」と言う理由で神様のご臨在を迎えないようにしてください。もちろん、それらは素晴らしいことです。しかし、それらを人の手で行って、力技で主の臨在があるように見せかけているのであれば、それは恐ろしいことです。それは酒に酔っているようなものです。主は戸の外に立って「わたしを入れてくれ!」と叩き続けているでしょう。

そのような惑わしを見分けることが出来るのは変わることのない真理のみことばです。みことばにしっかりと立ってください。終わりの時代には多くの惑わしがあります。どんなに素晴らしい、喜びの集まりでも、その中でみことばがみことばとして取り扱われていないのであれば、それは恐ろしいことです。浮足立ってはいけません。聖なる主のご臨在に混ぜ物をしてはいけません。ウザとアフヨに気をつけましょう。そして、主の方法で主のご臨在をお迎えし、これを尊んでいきましょう。そうするなら、あなたの人生は御国の繁栄に満ちたものとなります。

■A:考えてみよう
私の人生の中心を占めているものはなんだろうか。神様以外のものが私の心を支配していないだろうか。主は妬む神です。主以外に私たちの心が向くなら、主はなんとしてもそれを取り返したいと願われます。今日、全てのものを脇において、ただ主のご臨在を私たちの人生の中心にお迎えしましょう。そのためにも、知恵と啓示の御霊によって、みことばの真理が解き明かされていくことを願い求めましょう。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 しゅん 】

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