■S:今日の聖書の言葉
ガラテヤ人への手紙3章11節(歴代誌第一 2章)
★ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる。」のだからです。
■O:今日のコラム
この「義人は信仰によって生きる。」は、ローマ人への手紙1章17節でも語られていて、もともとは旧約のハバクク書2:4の『見よ。心のまっすぐでない者は心高ぶる。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。』から引用されています。
この「信仰」の語源はヘブル語で「エムナ」であり、「信じる」または「信頼する」と言う意味を持つことを、先日、メッセージを通して知ることが出来ました。
『義人は信仰によって生きる』とは、つまり「主の御前に正しいとされる者は、神に信頼することによって生きる」とも言うことが出来ます。
神に信頼すること。
私たちが誰かを信用する時、信頼する時、その人がどんな人かを知らなければ、信頼することは出来ません。
他の人から、その方がどれほどに信頼するに価するかを聞いたり、信頼した結果、信じた通りになった、という実績を聞いたら、信頼することも出来るでしょう。
しかしながら、1番の信頼はその人との関係の中で築き上げられていくのではないでしょうか。
私たちは、神の家族の証しを聞きます。それによって、主がどれほどに信頼に価する方を知ることが出来ます。けれども、神様との直接の関係の中で、主がどれほどに信頼に価するお方であるかを、自らが体験し、知り悟ることほど強いものはありません。
一流のシェフの作った料理を、「お腹を壊したりしないか…」と臭いを嗅いだり、怪しみながら食べること
はしません。シェフの腕を信頼しているからです。
美容院で、ハサミを入れる度に、「そこを切るのは大丈夫ですか?」と、美容師にいちいち尋ねることはしません。美容師に信頼し、任せているからです。
私たちには全能の神、天の父がおられます。それであるなら、何を恐れてこの人生を歩む必要があるでしょうか。
私たちが恐れるは主お一人です。
私たちは、もっと天のお父さんを信頼して生きることが出来ます。
私たちは神の子どもです。
マタイ7:11で主が言われたように、
「どうして、天の父が下さらないわけがあるだろうか?」という絶大な信頼と安心感を私たちはもっと持とうではありませんか。
赤ちゃんを見ると可愛くて心が溶けます。幼い子どもが泣いていても、ついつい泣き顔が可愛くて笑ってしまうことはないでしょうか?
それが天のお父様の私たちを見る目です。天のお父さんは、そのように私たちを見ておられます。
何をしていても、愛おしい。頑張る姿は、たとえ失敗していたとしても、主の目には、愛おしく映っているのです。
なかなか、天の父との距離が縮まらない。
天の父が遠い存在、と感じるのであれば、是非祈りの中で、自分の1番呼びやすい呼び名「天のお父さん」「父よ」「パパ」「アバ」などで、親しみを込めて呼び続けてみて下さい。
主は求めない者には押しつけません。
求める者に、天の父は応えて下さいます。とてもシンプルな原則です。
神の子としての自覚を得るために、是非天のお父さんとの関係を、祈りの中で深めていきましょう。
■A:考えてみよう
主以外に、自分が恐れているものはあるだろうか。自分にとって天の父はどのようなお方だろうか。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 みちる 】
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