■S:今日の聖書の言葉
コリント人への手紙 第一 11章23-25節(エゼキエル書29章)

★私は主から受けたことを、 あなたがたに伝えたのです。 すなわち、 主イエスは、 渡される夜、 パンを取り、
感謝をささげて後、 それを裂き、 こう言われました。 「これはあなたがたのための、 わたしのからだです。 わたしを覚えて、 これを行いなさい。 」
夕食の後、 杯をも同じようにして言われました。 「この杯は、 わたしの血による新しい契約です。 これを飲むたびに、 わたしを覚えて、 これを行いなさい。 」

■O:今日のコラム
パウロはコリント人への手紙第一の11章までで、食事に関する事、そして偶像礼拝の事について述べています。続く12章からは賜物、愛について書かれていきます。その11章の締めくくりは、この聖餐式の勧めが書かれています。
おそらく皆さんの教会でも毎月、あるいは毎回行われているかもしれません。この聖餐式の事に関して書くと、一冊の本になってしまいそうなので、今日は「パン」だけに注目して見たいと思います。
聖書の中では、パンがいたるところに登場します。ユダヤ民族の主食ですので、それほど親しみがあったのだと思います。まず、私たちが「パン」と聞いて、思い浮かべるのは出エジプトの時の「マナ」ではないかと思います。

1.マナ

イスラエルの家は、 それをマナと名づけた。 それはコエンドロの種のようで、 白く、 その味は蜜を入れたせんべいのようであった。(出エジプト記16書31節)

この「マナ」とはヘブライ語で「なんだこれ!」と言う意味だそうです。荒野において毎日天から降ってくるこの不思議な味と食感の食べ物を

「イスラエル人は人の住んでいる地に来るまで、 四十年間、 マナを食べた。 彼らはカナンの地の境に来るまで、 マナを食べた。」(出エジプト記16書35節)

とあります。荒野で大勢の民を養うこの「なんだこれ!」という不思議な食べ物は、新しい契約の中では、主からのみことばを象徴しています。

「私たちの父祖たちは荒野でマナを食べました。 『彼は彼らに天からパンを与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。 」
イエスは彼らに言われた。 「まことに、 まことに、 あなたがたに告げます。 モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。 しかし、 わたしの父は、 あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。
というのは、 神のパンは、 天から下って来て、 世にいのちを与えるものだからです。 」(ヨハネの福音書6:31-33)

神の御口から出たまことのパンは私たちの魂を生かします。この、毎朝皆様の元にとどけられる「マナメール」も、ここから名付けられました。このマナメールによって、皆様の魂が元気づけられていることを願います。

2.五千人の給食

次にパンで思い出すのは五千人の給食の箇所ではないでしょうか。

「そしてイエスは、 群衆に命じて草の上にすわらせ、 五つのパンと二匹の魚を取り、 天を見上げて、 それらを祝福し、 パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、 弟子たちは群衆に配った。人々はみな、 食べて満腹した。 そして、 パン切れの余りを取り集めると、 十二のかごにいっぱいあった。」(マタイの福音書14:19, 20)

イエス様はわずかなパンを祝福し、裂いて弟子たちに委ねられた時、そのわずかなパンが五千人を養い、さらに十二のかごをいっぱいにするほどでした。パンはイエス様から弟子に手渡され、弟子たちが群衆に配る中でどんどんと増えていきました。
これは、神からでるまことのパンをイエス・キリストの十字架の祝福を通して私たちに委ねられた時、私たちがそれを配るなら多くの人を養うことができると言うことを意味しているのではないかと思います。そのためにはみことばを正しく解釈する必要があります。では、どのようにしたら良いのでしょうか。それは次のポイントが鍵になります。

3.みことばを照らすまことの光

「幕屋が設けられ、 その前部の所には、 燭台と机と供えのパンがありました。 聖所と呼ばれる所です。」(ヘブル人への手紙9:2)

山で神様がモーセに見せたものの一つが幕屋でした。幕屋とはヘブライ語では「ミシュカーン」といいます。この言葉をそのまま訳すなら、「臨在の住む場所」と言う意味です。神様は創世記のエデンの園から始まり、世の終わり、そして永遠に至るまで人と共に住むことを願われています。

「そのとき私は、 御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。 「見よ。 神の幕屋が人とともにある。 神は彼らとともに住み、 彼らはその民となる。 また、 神ご自身が彼らとともにおられて、」(黙示録21:3)

ですので、この幕屋を聖書の中から研究するなら、神様がどれほど私たちを愛しているか、また、どれほど罪人である私たちと聖なる神様が共に住むことができるかを学ぶことが出来ます。
この幕屋の聖所と呼ばれるところには3つの器具が置かれていました。パンの台、燭台、そして香の壇です。聖所の中は分厚い垂れ幕で覆われていたので、昼でも真っ暗でした。みことばを意味するパンの台の正面に、パンの台を照らすために置かれていたのが燭台です。これは聖所の中の唯一の光でした。ただ、パンの台を照らすのは燭台の光以外なかったのです。
燭台は聖霊様を象徴します。つまり、決して変わることのない真理であるみことば(ロゴス)をただ照らすのは聖霊様です。このとき、真理の文字であるロゴスが生きて私たちの中に働かれるレーマとなります。

聖書は神の霊感によって書かれました。

「聖書はすべて、 神の霊感によるもので、 教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(2テモテ3:16)

それであれば、同じ霊をもってみことばを読まなければその奥義は紐解かれていかないはずです。聖書は難しいですが親切です。「聖書がわからない!」と言う方は、まず、聖書を読む前に「聖霊様、どうか私が聖書を読む時、一つ一つそのみことばの真理を私に分かるように解き明かしてください」と祈ってから読み始めてください。そうするなら、今まで何度も読んできたみことばが生きて皆様の中で働き始めるでしょう。

その際、ひとつ注意として、本当にわからないこと、また、不安なことがあれば、すぐに所属教会の牧師先生に相談しましょう。

「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。 すなわち、 聖書の預言はみな、 人の私的解釈を施してはならない、 ということです。」(2ペテロ1:20)

私たちに語られる神の言葉を見分けることは難しい時があります。それに自分の肉の声も交じることがあるからです。ですから、何でも牧師先生に相談しましょう。その会話の中で、また新しい関係が築かれ、強い愛の絆によって神のみ体が建て上げられていくと信じます。

とても長くなってしまいましたが、聖餐式でいただく「パン」には、この他にも多くの意味が込められています。信仰を持って主のみからだをいただく時、イエス様を覚えます。この方は私たちの罪を買い取るために命を捧げて下さいました。十字架の上で尊い血を流されました。血は命です。主のみからだのパンと主の命の血をいただく時、キリストの愛が私たちを満たします。

■A:考えてみよう
みことばを読む時、義務になっていませんか?みことばを読むことが苦痛になっていませんか?聖書を読むとき眠くなっていませんか?みことばは時には硬い肉のように感じることがあります。しかし、いつまでもミルクばかりを飲んでいては成長できません。ぜひ、信仰の次のステップに成長するためにも、さらに深いみことばの真理を求め始めてください。
敵はみことばから私たちの目をそらすためにあらゆる手段を使ってきます。敵は聖徒がみことばの真理を悟らないよう、総攻撃を仕掛けてきています。今こそ、しっかりとみことばの真理に立ちましょう。終わりの時代は多くの惑わしがあります。雰囲気に流されてはいけません。
全てを疑えと言っているわけではありませんが、使徒の働き17:11「ここのユダヤ人は、 テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、 非常に熱心にみことばを聞き、 はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。」と言うとおり、全てのことを聖書を通してみていきましょう。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 しゅん 】

カテゴリー: マナメール

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