■S:今日の聖書の言葉
第1列王記8章15節、16節、28節
★ソロモンはイスラエルの全集団の前で、主の祭壇の前に立ち、両手を天に差し伸べて、言った。
「…あなたのしもべの祈りと願いに御顔を向けてください。私の神、主よ。あなたのしもべが、きょう、御前にささげる叫びと祈りを聞いてください。」
■O:今日のコラム
今日、「悔い改め、この世と聖め別たれて歩む、というのは堅苦しく、古臭く、宗教的、律法的だ」と思われることはあります。
また、多くの教会で、主にある繁栄だけに注目し、悔い改めや十字架の罪の赦しをあまり語らない傾向にあったために、「繁栄神学」というものにアレルギーを覚えている人は多いのでは無いでしょうか?
今日の箇所には、何度も「祈りと願い」と、出てきます。「祈り」と「願い」は、それぞれ別のものとして記述されています。
私たちは、新約に到達して、ようやく「子としての霊」を受けたと感じているかも知れません。(ローマ書8:15)ようやく、神の子として、願い求める事が許されるようになった気がするかも知れません。
けれども、今日の箇所から分かるように、旧約の時代からずっと、神の御前に行く時に、「祈ること」と「願うこと」はセットだったことが分かります。
主は私たちに必要なもの、恵みを、惜しみなく与えて下さる方です。
More than enough 、「充分」を超える恵みです。
「祈り」は原語では“とりなし”であり、「願い」は原語では“嘆願”という意味です。それには“悔い改め”も含まれています。
私たちは、主の御前に祈る時、神と人との間に入ってとりなし、神と国との間に入ってとりなし、自分の罪を悔い改め、人々の罪を悔い改めます。けれども、それで終わりではありません。
それから、自分の願いを主の御前に広げ、大胆に主に願い求めていくことが、私たちの祈りのあり方であると信じます。
天の父が与えたいと願っておられるものを、臆することなく、大胆に願い求めて、受けとっていきましょう!
■A:考えてみよう
「祈りと願い」には、“とりなし”、“悔い改め”、“願い求め”、が含まれます。
自分の祈りに、この3つの祈りは含まれているだろうか?
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 みちる 】
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