■S:今日の聖書の言葉

★ローマ人への手紙9章22節〜24節

ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。
それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。
神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。

■O:今日のコラム
主を愛すること、自分自身を聖く保つこと、また主を礼拝することは、戒めとして、聖書に書かれています。
しかしながら、私たちが神である主を第一に愛し、主のために聖さを愛し、主に礼拝捧げる歩みは、律法主義なのでしょうか?

今日の箇所にあるように、私たち異邦人はもともとは「滅ぼされるべき怒りの器」、つまり滅びるべき民でした。

私たち異邦人が神様の御前に「義(神の御前に正しい者)」とされたのは、何のゆえでしょうか?
30節によると「信仰による義」とあります。
私たちが今、造り主である方を信じ、御子イエス様の十字架の救いと復活にあずかり、御霊と共に歩むことが出来るのは、一方的な恵みなのです。
そして、私たちは、御父、御子、御霊を信じる信仰によって「義(神の御前に正しい者)」とされているのであって、私たちの出生や行いによりません。
私たちは、信仰のゆえに、義とされ、神の子とされているのです。

イスラエルの民は、すでに選びの民であったにも関わらず、律法を守ること(行い)によって「義」とされることを求めました。
そんな中でも、旧約の時代に神の御前に「義」とされた人物は、皆、その「信仰」によったのです。(ヘブル11章参照)

今日、私たちは、自分がすでに義とされていることを忘れ、喜びや感謝抜きに、「主を第一に愛さなくては…」「主の前に聖い者でなければ…」「主を礼拝しなければ…」と律法の下に自分を押し込んでしまいます。
まるで、律法を守ることによって、義とされようとしたイスラエルの民の過ちをたどるかのようです。
これは神との生きた関係の上に基づいたものではありません。

滅ぶべき怒りの器(私たち異邦人)が、神の子として生かされていることを知ったなら、私たちはその信仰のゆえに、また、その恵みに対する感謝のゆえに、主を一心に愛し、自分自身を聖く保ち、また主に礼拝捧げたいと願うのです!
それは決して律法主義ではありません。

■A:考えてみよう
今日、私たちが、主を愛し、聖さを愛し、礼拝捧げる動機が、何に基づいているかを、もう一度確認してみましょう。
神を第1に愛すること、聖く歩むこと、礼拝捧げること自体が、心の願いに入っていない方、責めを感じないで下さい。主の愛は変わりません!
先ず聖霊様を自分の内に昨日よりもっともっと歓迎し、「御父の愛を悟らせて下さい」と求めていきましょう。必ず、律法としてではなく、心からの願いとして、主を愛して、聖さを愛し、喜びに溢れて礼拝捧げることが出来るでしょう(^O^)/

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 みちる 】

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