■S:今日の聖書の言葉
詩篇141篇5節(マタイの福音書19章)

★正しい者が愛情をもって私を打ち、
私を責めますように。
それは頭にそそがれる油です。
私の頭がそれを拒まないようにしてください。
彼らが悪行を重ねても、なおも私は祈ります。

■O:今日のコラム
私は子どもの頃、父親からあまり叱られた記憶がありません。それほど父は優しく寛大だったのですが、一方、自分は愛されていないのではないかと感じていました。それゆえに、今でも私は年長者から叱られることにとても抵抗があります。そして、叱られても先に反発心が起こり、素直にごめんなさいと言えません。これが私の弱さです。

ダビデはどうでしょうか。「正しい者が愛情をもって私を打ち、私を責めますように。」と、責められることを願っています。しかも、「それは頭に注がれる油だ」とまで言っています。
この箇所をリビングバイブルは次のように訳しています。
「神様を敬う人のきびしい忠告は、親切心から出たものです。非難されたように感じても、結局は薬となるのです。ですから、拒絶反応を示しませんように。」

誰でも、人から注意されたり、忠告されたり、叱責されたりすることは気持ちのいいことではないでしょう。しかし、それが神様を敬っている正しい人からの忠告であれば、その忠告はとても価値のあるものです。ダビデはその事を知っていました。そして、その教えは息子であるソロモンにもしっかりと伝えられていました。

密議をこらさなければ、 計画は破れ、
多くの助言者によって、 成功する。
<箴言15章22節>

人から忠告されることは良いことです。もし、忠告されなくなった時は少し注意する必要がありません。もう一度、自分の心を点検する必要があるかもしれません。忠告されるうちが花です。自分の何が忠告を受けないようにしているのか、神様にしっかりと聞く必要があるかもしれません。

忠告をいつも受け入れる心でいるためには、どのようにすればいいのでしょうか。
そのためには、いつも私たちの目が神様に向き続けている必要があります。ダビデも、8節で次のように言っています。

私の主、 神よ。
まことに、 私の目はあなたに向いています。
私はあなたに身を避けます。
私を放り出さないでください。

この「身を避ける」という言葉は言語の本来の意味を見ると「逃げこむ」とあります。
主こそ私たちの避け所です。ここに私たちの帰る場所があります。たとえ傷ついても、主は必ず私を慰めて下さる、決して私を放り出すことはないお方であるという信仰を持つなら、私たちは自分を愛し、そして隣人を愛することができます。
そして、神を敬う人の叱責も受け入れることができるようになるでしょう。

今日の通読箇所であるマタイの福音書19章の後半には、金持ちの青年ができてきます。
彼は幼い頃から律法を守っていました。そして、イエス様に永遠の命を得るにはどうすればいいか尋ねます。
それに対して、イエス様は、持ち物を全部売って、貧しい物に与えなさいと言われます。
この青年はイエス様からの忠告を受け入れませんでした。どうしても自分の今までの生活を改めることができなかったのでしょう。
このとき、イエス様は「もしあなたが完全になりたいのなら」と言われました。これは、詳しく調べると「自己犠牲的品性を伴う霊的成熟を得たいならば」と書かれています。
私たちはイエス様のように完全にはなれないかもしれませんが、完全を目指すことはできるはずです。
さらに霊的な成熟を得るためにも、神様を敬う人からの忠告を拒まないようにしましょう。

■A:考えてみよう
あなたは最近、神様を敬う人から忠告を受けましたか?その時のあなたの反応はどうでしたか?
その忠告を受け入れられなかったのなら、あなたはまだ主に信頼することを完全にできていないかもしれません。
もしくは、まだ何かを手放したくないと握りしめているのかもしれません。
全てを捨てて、主に信頼しましょう。主はあなたを決して見放さず、見捨てません。
主に目を向け続け、身を避け、忠告を受け入れやすい心に変えられていきましょう。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 しゅん 】

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