■S:今日の聖書の言葉
マタイの福音書 11章28節〜30節(詩篇132篇)

★すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

■O:今日のコラム
この箇所から、私たちが疲れることなく、重荷を負うことなく、主のもとで休みを得て、たましいに安らぎを得るために、2つのことを学ぶことができます。

一つ目は、主の御元に行くことです。

28節には、疲れた人、重荷を負っている人は、主のところに行けば、主がその人を休ませてくださることが書かれています。

私たちは、主の御元に行くとき、主の御前に出るとき、本当の安らぎ、休みを得ることができます。

主の御前、主の臨在の中が、唯一私たちが、本当に安らぐことができる場所だからです。主の御前、主の臨在の中にあるものは、安息、安らぎ、楽しみ、喜び、平安、など天にあるものであり、苦しみ、痛み、辛さ、憎しみなどはありません。

私たちが、主のもとに行くならば、疲れたり、重荷を負うことはないのです。主のもとに行くならば、安息があるからです。

もちろん、私たちは肉体や心に疲れを感じてしまうとき、重荷に感じてしまうときがあると思います。でも、主のもとにいくならば、本当の休み、安息があるので、私たちは疲れ果てることはなく、重荷を負ってしまうこともないことを私たちは絶えず覚える必要があります。

私たちは、主を待ち望むならば疲れることなくむしろ新しい力を得(イザヤ40:31)、イエス様のことを考えているならば、私たちの心は元気を失うことも疲れ果てることもない(へブル12:3)からです。

そして、私たちがすべきことである「神を愛し、みことばを守ること」は重荷にはならず(1ヨハネ5:3)、私たちはいっさいの重荷を捨てて信仰のレースを走っていく者たちだからです(へブル12:1)。

心の疲れや重荷は、神の子どもであり、この地においても御国に歩む私たちに与えられているものではありません。

しかしながら、私も、朝から1日忙しく大変だった日など、肉体的にも疲れを感じてしまうときがあり、「祈りたいけど、今日はもう疲れているから、数分だけ祈って帰ろう」と思って祈りの家で祈るときがよくあります。しかし、そう思ってしまうときでも、主の御前に出て祈り、主の臨在に浸り、その中で憩うとき、新しい力が注がれるのを感じ、肉体の疲れまでも忘れてしまい、気づいたら2,3時間がたっている時がよくあります。そして、感じていた疲れがなくなり、元気になっているのです。

心に疲れを感じてしまうとき、重荷を感じて思い煩ってしまうときに、主の御前に出るときも、同じような経験をよくします。主の臨在の中で慰めと励ましを受け、主が心に平安を与えてくださり、主の安息の中で力を得るのです。主の御前に出て祈る前と後では心の思いは全然違っているのです。

疲れや重荷を感じるとき、それは、私たちが主の御前に出ていない、主の御元に行っていないからかもしれません。

私たちは、絶えず主の御前に出続けること、主のもとに行き続ける必要があります。私たちは、日曜礼拝のときや、祈りの家で祈るときだけでなく、何をしていてもどこにいても絶えず主の御前に生きる者であるからです。

主の安息の中で、私たちは力を得ます。主のもとに行くならば、私たちは霊、肉、魂においても休むことができ、主の安息の中に入るなら、疲れや重荷はなくなるのです。

そのために、絶えず主の御前を歩み、いつも主のもとに行き安息する者でありたいと強く願います。

二つ目は、主のくびきを負うことです。

「くびき」とは、牛や家畜などの2匹の動物を一つとするための、2つのくぼみをつけた横木で造られた道具のことです。その横木に、それぞれの首を固定して、2匹が一つとなって働きができるようにするためのものです。

つまり、主のくびきを負うとは、「主と一つとなること」を意味します。

どんな働きをするときであっても、何をするときであっても、私たちは主のくびきを負い、主と一つとなるように召されています。

主のくびきは負いやすく、ここちよいものであり(11:30)、主のくびきを負って、主と一つとなって働き、歩むならば、いつでもたましいに安らぎを得て、いつも平安でいられるのです。

ギリシャ語聖書を見ると、28節の「休み」で使われている動詞の単語の名詞にあたるのが、29節の「安らぎ」という単語です。

なので、主のくびきを負い、主と一つとなるならば、疲れることも、重荷を負うこともないのです。

主と一つになるとき、主から直接学び、主のしていることを主と一緒に行い、主が行くところに主と一緒に行くことができます。主の道を主とともに歩めるのです。

主がいつも一緒で、いつも主と一つであること、私たちにとって、これほど、楽しく平安で喜びなことはありません。そうなるならば、何があっても、心が元気を失い疲れることもなく、余計な重荷も一切感じないはずです。

「わたしのくびきを負いなさい」とは、「わたしと一つになろう」という主からの愛のプロポーズです。

主が、すでに横木に自分の首を通して固定し、私たち一人一人に、すぐ隣の空いているくぼみを指して、一緒になろうと招いている姿を想像します。

■A:考えてみよう
今、心に疲れを感じているか?負うべきでない重荷を負っていないか?

絶えず主の御前を歩み、主のもとに行っているだろうか?

日々、主の御元で安息しているだろうか?

主のくびきを負い、主と一つになることを願い、主の招きに答えたいと思うだろうか?

「わたしのところに来なさい」という主の招きに答え、主の御前に進み出ましょう。

■P:祈り
主よ、今日もあなたのもとに行き、主の臨在の中で、休み、安息を得ることができるよう私を導いてください。すべての心の疲れの思いも、重荷も、今あなたの十字架の前に明け渡し、かわりにあなたのくびきを負います。私をあなたと一つにしてください。今日もあなたと一つになって歩める1日を天のお父さんに感謝し、愛するイエス様の御名でお祈りします。アーメン。

【 ありさ 】

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