■S:今日の聖書の言葉
サムエル記 第一 26章9節

★ しかしダビデはアビシャイに言った。「殺してはならない。主に油そそがれた方に手を下して、だれが無罪でおられよう。」

■O:今日のコラム
サウルは執拗なまでにダビデの命を狙い続けました。
ある時は、サウルが用を足すために洞穴に入って来、ダビデにはサウルを殺すチャンスがありましたが、ダビデはサウルに手を下すことはしませんでした。(24章)
サウルはそれを知って、心の底から悔い改めたと思いきや、またしても、ダビデを追って、荒野にやって来たのでした。
夜中に、サウルが幕営で寝入っているところに、ダビデとアビシャイが近づきました。
アビシャイは、サウルの槍が彼の枕元の地面に突き刺してあるのを見て、『今こそチャンスだ!サウルをこの槍で刺し殺させて下さい!』とダビデに頼みました。その時に、ダビデは答えました。
「殺してはならない。主に油そそがれた方に手を下して、だれが無罪でおられよう。」(第1サムエル記26:9)
ダビデはいつも、主の見方と同じ目線を持っていました。

子犬のように震えているイスラエルの民を、ゴリアテが馬鹿にしていた時も、どこからどう見ても、弱っちいイスラエルの軍のことを「生ける神の陣」と呼びました。(第1サムエル17:26,36)

同じように、誰がどう見ても理不尽極まりない王サウルのことを、ダビデは「主に油注がれた方」と呼んだのでした。

先日、ビル・ジョンソン師は集会において、「まだクリスチャンになっていない人にも敬意を払いましょう。イエス様を知らない、やがて滅びる人々、という見方を捨てましょう。」と語っておられました。

神様が人々を見る時、主の目には罪にまみれた汚れたもののよう映っているのでしょうか。違います。
主の目にうつるのは、御子イエス様の命を差し出してまでも、御腕の中に取り戻したい、と願っている尊い存在です。

その人が、神様を知らない人なら、もしかしたら、「知らないでこのような態度をとっているだから」と寛容になりやすいかも知れません。
もしかしたら、相手がクリスチャンなら、逆に、受け入れがたい時もあるかも知れません。

相手がどの様な人であろうと、クリスチャンであろうとなかろうと、例えその人が自分に批判的であったとしても、私たちが持つべき視点は、神様がその人をどう見ておられるか、という視点です。
その人の罪のゆえに、主は心を痛めておられるかも知れません、しかし、それでもなお愛しているのです。
自分の命を狙う人を、「主に油注がれた方」とは、なかなか呼べないでしょう。
私たちは御霊によってこそ、御父がどう見ておられるかを知ることが出来、また御霊によってこそ御父の目線を持つことが出来るのです。
自分の目線ではなく、御父の目線を尊びましょう。
街を通りゆく人々を、御父の目を通して見るならば、いてもたってもいられなくなるでしょう。
御父と同じ視点を持つことが出来るように、聖霊様により頼んでいきましょう!

■A:考えてみよう
自分の周りの誰かを見る時、自分の見方は、自分自身の視点だろうか?御父の視点だろうか?
天の父はその人をどう見ておられるだろうか?天の父は、その人をどう思っておられるだろうか?

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 みちる 】

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