■S:今日の聖書の言葉
サムエル記 第一 12章20節

★サムエルは民に言った。 「恐れてはならない。 あなたがたは、 このすべての悪を行った。 しかし【主】に従い、 わきにそれず、 心を尽くして【主】に仕えなさい。

■O:今日のコラム
どんな偉人でも、どんな完璧に見える人であっても、人は誰でも失敗をしてしまうものです。自分に関しても、「あの時は熱心にあることを望んでいたのに、しばらく年月を置いて振り返ると、それは間違っていた」ということに気付かされることもあります。
イスラエルの民は自分たちにリーダーがいないことに不安を覚え、王を切に求めていました。その切望した王がついに与えられたのが最近通読をしている箇所です。しかし、神様の目線から見ると、それは最善の方法ではなかったようです。主の願いは、王を通して導かれるのではなく、一人ひとりが直接主とつながって導かれることでした。
王を求め続け、ついにサウルという王がイスラエルに立てられた時、サムエルはその危険性について民に警告しました。そのことで、民は自分のしてしまった事を悔います。過去は消すことはできません。タイムマシンで戻ってやり直すこともできません。事実は変えられないのです。しかし、主は哀れみ深く恵み深い方です。
本当はプランA、主の御心の真ん中を歩むことを求めておられたのに、プランBの王がほしいというプランを選んでしまった民に対し、きっちりと本当に王を送って下さいました。その上、その間違った道から立ち直り、正しい道を歩むことを預言者サムエルを通して語って下さいました。
では、具体的に私たちが間違った道を歩んでしまった時、どのようにすればよいかをみことばから見て行きたいと思います。

(1)恐れてはならない
私たち日本人にとって、もっと厄介な問題の一つはこの「恐れ」です。誰も皆、何かに恐れているのではないかと思います。その多くは、お金に関すること、自分の生活に関すること、自分の地位に関することなどでしょう。一言で言うと、「周りの眼」を恐れているのではないかと思います。
しかし、主は言われます。「恐れてはならない」と。そうです。たとえ罪を犯したとしても、失敗したとしても、私たちは恐れなくていいのです。自分を攻め続けなくていいのです。主御自身が失敗した民に対して「恐れてはならない」と呼びかけてくださっています。
私たちはまず、恐れを捨てて主の前に出ていく必要があります。主は寛大な方です。天のお父さんの愛は大きなものです。もし、私たちが心から悔い改め、父の方に方向転換するなら、放蕩息子が受けた以上の好意を主から受けると信じます。そのためにも、天のお父さんの愛を余すこと無く受け取る決断をしましょう。
「愛には恐れがありません。 全き愛は恐れを締め出します。 なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。 恐れる者の愛は、 全きものとなっていないのです。」(ヨハネの手紙 第一 4章18節)

(2)あなたがたは、 このすべての悪を行った。
まちがった事をした時、私たちに必要なのは「自分は間違ったことをした」と認めることです。薬物やアルコールなどの中毒症状の患者さんを回復するのに一番必要な最初のステップは「自分は中毒症状にある」と言うことを認めることから始まるそうです。
中毒症状に陥っている人は感覚が麻痺してしまっているので、自分がその中にどっぷり使っていることに気づかないものなのです。知らない間に長時間テレビを見続けたり、ゲームをし続けたりする人に、「なんでそんなに長くし続けるの?」と聞くと、人相が代わったように怒り始めることを何度か経験したことがあります。その人は立派な中毒症状にあります。それを何とか気づかせてあげようとするのですが、私の力ではまだそれに及びません。
「自分はなんて状態にあるんだ!」と気づくことができるよう祈ります。そして、皆さんも自分自身の心に問いかけてみてください。なにか手放せていないものはないか。取り上げられると怒りが生じてくるものはないか。
それらを主に捧げるなら、私たちは自由になります。解放されます。しかし、はじめは苦しいでしょう。そして、自分の事を貧しい者のように感じるかもしれません。しかし、主はこのように語られます。
「心の貧しい者は幸いです。 天の御国はその人たちのものだから。」(マタイの福音書 5章3節)
自分の心のなかに貧しさ(主への飢え乾き)を感じることは、ものすごく価値のあることです。天のお父さんの愛を受けて、今の自分の状態を素直に認めましょう。

(3)しかし【主】に従い、 わきにそれず、 心を尽くして【主】に仕えなさい。
恐れを取り去り、自分の状態を認めたなら、最後にするべきことは脇にそれず、主に従い続けることです。「そんなことは難しい!」と思うかもしれません。確かに難しいかもしれませんが、だからといって諦めてしまうのはよくありません。できないのであれば、それができるように主に求め続けるのです。夜中に友人のためにパンを求める人のように、裁判官に対して訴え続けるやもめの用に、しつこいまでに主に「あなたに従い続けさせて下さい!」と求めるのです。
しかし、そんな時に限ってやってくるのが邪魔者です。
「役にも立たず、 救い出すこともできないむなしいものに従って、 わきへそれてはならない。 それはむなしいものだ。」(1サムエル12:21)
私たちは何が正しく、なにが間違っているかを正しく見極める必要があります。知恵と啓示の御霊が必要です。見分ける賜物が必要です。これからの時代、ますますこの事が必要になってくるでしょう。様々な教えや、これこそ正しいという主張があるかもしれません。しかし、絶対に正しいのは主のみことばです。みことばがみことばとして権威を持って確立されていく必要があります。
みことばが理解できないのであれば、それを理解できるように、自分の心を造りかえていただくように主に求めるのです。決して、自分たちの都合にあわせてみことばを変えるようなことはあってはなりません。みことばを私たちに合わせるのではなく、私たちをみことばに従わせていくのです。そのことが「主に仕える」と言うことではないでしょうか。
みことばに自分を合わせ続ける事をするなら、主はこのように語りかけられます。
「まことに【主】は、 ご自分の偉大な御名のために、 ご自分の民を捨て去らない。 【主】はあえて、 あなたがたをご自分の民とされるからだ。」(1サムエル12:22)
主は失敗することを知っていて、「あえて」私たちを呼び出し、選んでくださっているのです。この「あえて」という言葉は、別の意味では「引き続き」と書かれています。私たちが自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って主についていく、毎日の悔い改め(主への方向転換、みことばに自分を従わせる行為)を続けるなら、主はその偉大なヤハウェのお名前によって、私たちを決して捨て去ることはなさいません。
恐れを捨て、主の前に進み出て、自分の間違いを素直に認め、主に従い続ける。その過程を繰り返し続けるなら、主が私たちを成長させてくださいます。そして、私たちを義の道に導いてくださるでしょう。
「主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、 私を義の道に導かれます。」(詩篇23篇3節)

■A:考えてみよう
私たちは何に仕えているだろうか?自分の人生の歩みの中で、主以外の王を求めていないだろうか?主は求めるものは何でも与えて下さる主です。だからこそ、賢く求める必要があります。私たちが求めるものが私たちにとって最善ではないかもしれないからです。
私たちが求めるただ一つのもの、それは【主】です。この一年も【主】を見上げ、慕い求めていきましょう。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 しゅん 】

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