■S:今日の聖書の言葉
ペテロの手紙第二 1章20-21節(詩篇89篇)
★それには何よりも次のことを知っていなければいけません。 すなわち、 聖書の預言はみな、 人の私的解釈を施してはならない、 ということです。
なぜなら、 預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、 聖霊に動かされた人たちが、 神からのことばを語ったのだからです。
■O:今日のコラム
みなさんは、勘違いで痛い目を見たことはありませんか?僕は、せっかちな性格なので、よくこの失敗をしてしまいます。人との約束での勘違いなら、まだ謝って済むかもしれませんが、聖書を読む時にはとても気をつけなければなりません。
聖書にはたくさんの預言があります。旧約聖書では、「やがて救い主が来る」というメシヤ預言をはじめ、数々の預言が書かれています。これは、聖霊様によって示されたことを聖書の著者が記したことです。
「聖書はすべて、 神の霊感によるもので、 教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」
(2テモテ3:16)
もし、聖書が霊感(インスピレーション)で書かれたのであれば、私たちも霊感を持ってそれを読んでいく必要があります。聖霊様は昔も今もこの先も変わらないお方だからです。聖書を書き留めた者に語りかけた同じ御霊が今も生きていて、私たちとともにおられます。聖霊様を通して聖書を読むことが、みことばの奥義を開く鍵になります。
どうしてでしょうか。それは幕屋の構造を通して知ることが出来ます。幕屋の聖所の中には3つの器具がありました。(正式には2つの器具ですが)パンの台、燭台、そして香の壇です。
パンの台とはみことばを象徴しています。そのパンの台のお向かいにあったのが燭台(メノラー)です。この燭台は真っ暗の聖所の中で唯一の光として、パンの台を照らすためにありました。この燭台は聖霊様を象徴しています。つまり、聖霊様の真実の光にみことばが照らされることによって、みことば(ロゴス)が真理(レーマ)になるのです。
そしてもう一つの器具は香の壇です。この香の壇は、本来至聖所に属するものです。しかし、一時的に聖所に出てきて置かれていました。祭司はこの香の壇からとって、香を携え至聖所に入るのです。香の壇は祈りを意味します。祈りが聖所と至聖所の橋渡しになります。つまり、主の御臨在に近づくには、祈りは不可欠なのです。
ここに、人の感情や私情はまったく入る余地がありません。そうであれば、王家の血筋をひく祭司とされた私たちは、同じようにみことばを読む時に私情を挟むことは避けなければなりません。みことばをみことばとして読み、受け取るのです。これが、人の私的解釈をしないということです。
私が何を言っているかではなく、みことばが何を言っているのかを素直に受け取れる知恵と啓示の御霊が皆様にますます注がれていくよう祝福いたします。
■A:考えてみよう
みことばを自分の都合のいいようにとらえていないだろうか?自分の好きなみことばだけを拾い読みしていないだろうか?
もちろん、それは悪いことではありません。しかし、好きだからといってラーメンばかりを毎日食べていると、体調を崩しやすくなったりするでしょう。食事もバランスが大切です。好き嫌いのない健康的な食事が健康な体を作ります。
同じように、霊の食物であるみことばも自分の選り好みをしないで、みことばをみことばとして受け取りましょう。
また、預言はとてもパワフルなものですが、それゆえ、取り扱いがとても大切になります。預言という賜物を支える人格も必要です。預言を語るものは、必ず教会にしっかりと植えられていなければなりません。そして、牧師の覆いのもとで語る必要があります。また、決して聖書の範疇(はんちゅう)を超えて語られるものではありません。
神からの預言を正しく、力強く解き放つためにも、みことばに精通し、日々みことばを愛するものとしてみことばに変えられていきましょう。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 しゅん 】
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