■S:今日の聖書の言葉

ヨハネの福音書11章35節(詩篇75篇)

★イエスは涙を流された。

■O:今日のコラム

今日のみことばはとても短いですが、その中に多くの真理が隠されています。イエス様が涙を流された。なぜ、イエス様は涙を流されたのでしょうか。
一般的に考えるなら、大切な人であるラザロの死を悲しんで涙を流されたと考えられます。しかし、このヨハネの11章全体を見るなら、そのことが主な原因ではないことが考えられます。
まず、このラザロの復活という一連の出来事のベースは、イエス様の愛であったことがわかります。
「イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。」(5節)
イエス様は、マルタとマリヤ、そしてラザロを愛しておられました。イエス様の動機がいつも愛であることを覚えておく必要があります。
続いて、イエス様は大変なリスクを犯していたことがわかります。
「そのようなわけで、 イエスは、 ラザロが病んでいることを聞かれたときも、 そのおられた所になお二日とどまられた。その後、 イエスは、 「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われた。弟子たちはイエスに言った。 「先生。 たった今ユダヤ人たちが、 あなたを石打ちにしようとしていたのに、 またそこにおいでになるのですか。 」」(6-8節)
イエス様は、先に進もうと思えば進むこともできました。しかし、自分が石打で殺されそうになった人たちがたくさんいるところに、あえて戻っていったのです。ここでとどまられた二日間は、もしかしたらイエス様も悩まれていたのかもしれません。しかし、リスクを犯してまでも、愛するラザロをよみがえらせたいという愛がイエス様をラザロのところに引き戻したのではないかと思います。
そしてイエス様がベタニヤに戻って来られた時、最初にお迎えに行ったのはマルタでした。さすがもてなしの賜物を持ったマルタです。そして、イエス様にこのように言います。「マルタはイエスに向かって言った。 「主よ。 もしここにいてくださったなら、 私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(21節)
姉の心中を考えたら、当然のことでしょう。それに対してイエス様はこのように答えられます。
「イエスは言われた。 「わたしは、 よみがえりです。 いのちです。 わたしを信じる者は、 死んでも生きるのです。また、 生きていてわたしを信じる者は、 決して死ぬことがありません。 このことを信じますか。 」」(25-26節)
とても励まされるみことばです。この答えに対して、マルタは信じますと告白し、家に戻ります。イエス様がマルタにされたことはここまででした。
しかし、その後、マルタはイエス様がベタニヤに戻って来られたことをマリヤに伝えると、マリヤは急いで出ていき、イエス様にこのように言われます。
「マリヤは、 イエスのおられた所に来て、 お目にかかると、 その足もとにひれ伏して言った。 「主よ。 もしここにいてくださったなら、 私の兄弟は死ななかったでしょうに。 」 」(32節)
気づきましたか?マルタとマリヤは、全く同じ事をイエス様に言ったのです。しかし、マリアがこの事を言った後、イエス様はどのように答えられたでしょうか。それが今日のみことばです。「イエスは涙を流された」(35節)
姉妹が全く同じ言葉を言ったのに、どうしてこのような違いが起こったのでしょうか。それは、それぞれの心の態度の違いがあったのではないかと思います。
マルタは、「イエスに向かって言った。」と書かれています。向かってということは、恐らくマルタのことですので、イエス様の顔を見ながら、怒り混じりに言ったのではないかと思います。
一方マリヤはどのように言ったかというと、「その足もとにひれ伏して言った。」と書かれています。マリヤはイエス様の顔を見ることもできず、ただ主の足もとにひれ伏して涙ながらに訴えたのではないかと思います。この涙ながらの訴えがイエス様の心を動かしたのだと思います。33節には、このように書かれています。
「そこでイエスは、 彼女が泣き、 彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、 霊の憤りを覚え、 心の動揺を感じて、」
霊の憤りとは「エンブリマオマイ」というギリシャ語で、激しく攻め立てるという意味があります。また、心の動揺とは、「タラソー」というギリシャ語で、かき乱すという意味があります。ベテスダの池をかき混ぜるというところでも同じ言葉が使われています。つまり、マリヤの訴えがイエス様に激しい霊の攻め立てを起こし、そのことによってイエス様の心はかき乱されてしまったのです。
マリヤの訴えはイエス様の心を動かしました。結果、ラザロは死後4日もたっていたにも関わらず、イエス様の「ラザロよ、出てきなさい!」という御言葉で生き返りました。イエス様の心をかき乱し、ラザロに向かわせたのはマリヤの砕かれた礼拝者としての姿勢でした。
もし、私たちが高ぶった心を持ったまま、マルタのようにイエス様に訴えるなら、イエス様からの諭しをいただけるかもしれません。しかし、私たちが日々悔い改めを持って、真の礼拝者の心を持って主の足もとにひれ伏し、願い求めるなら、主はその姿に心動かされ、涙を流して訴えを聞いてくださいます。
「あなたがたがわたしにとどまり、 わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、 何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。 そうすれば、 あなたがたのためにそれがかなえられます。」(ヨハネの福音書15:7)
何かをしてほしいからという心を持ってイエス様のところに行くのではなく、イエス様を愛するがゆえに御もとに行き、そこにとどまり続けるなら、主はその訴えを聞いてくださいます。皆さんに真の礼拝者であるマリヤの心が与えられることを祈ります。

■A:考えてみよう

私たちは上辺だけでイエス様に訴えをしていないだろうか。自分の働きを中心にしてしまっていないだろうか。どんなことでも、自分を中心にしてしまうと、それは的外れ(ハマルティア=罪)な生き方となってしまいます。
私たちは一瞬たりとも、イエス様の側を離れて生きていくことはできません。私たちの中心はイエス様です。私たちが本当に心砕かれて、イエス様の側に行くなら、イエス様も私たちに寄り添って、涙を流して私たちに答えてくださいます。
そのためにも、自分の必要なときにだけイエス様の側に行くようなご利益信仰的な生き方をやめ、どんな時もイエス様の側にとどまり続ける生き方に変えられていきましょう。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 しゅん 】

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