■S:今日の聖書の言葉
イザヤ書22章12-13節(ルカによる福音書22章)
★ その日、万軍の神、主は、「泣け。悲しめ。頭を丸めて、荒布をまとえ」と呼びかけられたのに、なんと、おまえたちは楽しみ喜び、牛を殺し、羊をほふり、肉を食らい、ぶどう酒を飲み、「飲めよ。食らえよ。どうせ、あすは死ぬのだから」と言っている。
■O:今日のコラム
主はエルサレムに向かって、預言者を通して語り続けていました。『エルサレムが侵略されているのは、私に目を向けさせるためだ』と。しかし、彼らは主の御顔を求める事をせず、さらなる苦しみへと向かっていきました。エルサレムとは、キリストの花嫁の象徴です。つまり私たちのことです。
私たちは主の御顔を慕い求めてきました。これは小森宣教師が語っていたメッセージですが、主は、いつも笑っているだけではありません。主は、基本的に喜びに満ちた方です。
しかし、悲しみ、怒り、笑い、感情の豊かな方です。
そして、親しい関係だからこそ見せる表情というものがあるはずです。親しくなければ見せられない顔というものもあるものです。親しい関係だからこそ、苦悩も喜びも分かち合いたいと思うものです。いつもヘラヘラ笑っているだけの夫婦などありえません。
主は、教会が自分に顔を向けてくれないときに悲しみ、教会が不品行にまみれ、争いにまみれているときに笑顔でいられません。福音を聞いた事が無く、さまよっている魂が地に満ち溢れているときに笑顔ではいられません。
主は、悲しみに勝って喜びと希望に満ち溢れた方ですが、時に私たちと悲しみを共有したいと願われるときがあります。
『神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。』(コリント人への手紙 第二11章10節)
私たちは、主の御顔を慕い求めてきました。ならば、主の表情を知るようになってきている事に気づいているはずです。
主を悲しませてはいけません。私たちの心や言動で、主を悲しませないようにしましょう。それ以上に主の喜ぶ顔を求めましょう! 私にも愛する家族がいますが、家族の笑顔は、何よりもの私の喜びです。
■A:考えてみよう
主の喜ぶ顔を求め、主を悲しませないようにしましょう。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 まじまこ 】
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