■S:今日の聖書の言葉
マルコによる福音書14章9節(詩篇36篇)
★ 「まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が述べ伝えられる所なら、この人のしたことも語られて、この人の記念となるでしょう。」
■O:今日のコラム
ここはマルタの妹、マリヤがベタニヤでイエス様に香油を注いだ有名な箇所です。イエス様が「福音が述べ伝えられる所なら、彼女のしたことも語られるだろう。」と言われたほどのことであるなら、私たちは彼女から大いに学ぶべきでしょう。それほどに、主の心を動かしたことなのですから。
マリヤが石膏の壺を割ってしまったことから、彼女が高価な香油を一滴も自分のために残しておく気は無く、すべて捧げきるつもりであったことを、知ることが出来ます。私たちは、何を主に捧げるにしても、自分のベストを捧げましょう。捧げきりましょう。
また、彼女の大胆さは見逃せません。高価な香油の壺を割って、すべてイエス様に注いでしまうという行為は、その場に居合わせた人々が驚き呆れてしまうような、とんでもない行動でした。
まわりの人に「お前はバカか?」と言われる事も彼女は覚悟していたかも知れません。でも、彼女にとっては、自分が恥をかくこと以上に、愛する主イエス様に捧げることの方が重要だったのです。彼女は主を想うあまりに、このように前代未聞な大胆な行動にでたのでした。
この「主を想うあまりの大胆さ」は、真の礼拝者となるためには必要なことです。
ダビデも主の臨在を前にして、裸で踊りました。彼も妻にバカにされましたが、妻にバカにされることを心配する以上に、主を愛し主を喜ぶ想いの方がまさっていたのです。
なにも、前代未聞なことや、人が驚くようなこと、わざわざおかしなことを礼拝でするべきというわけではありません。主は秩序のある神様です。また、「愛は礼儀に反することをせず」(コリント人への手紙 第二 13章5節) ですから、愛の配慮も大切です。
しかしながら、自分の中で自分の体裁を保つことを大切にしていたり、人の批難や人の目を恐れていると、本当の意味でマリヤのような「壺を割る礼拝」にはいたりません。
ある姉妹が「私は今まで、自分が音痴で恥ずかしいから賛美をしませんでしたが、今はそんなことより、主を讃えないと!という思いにかられて大きな声で賛美しています。楽しいです。」と証しして下さいました。
主が彼女のその礼拝の姿を見て、どんなにか心を動かされただろうと思いはかり、涙が出ました。「声を上げる」ということがこの姉妹の「壺」でした。
私たちには人それぞれの壺があるでしょう。礼拝する時、主を想う心よりも、恥をかく心配することの方がまさってしまうなら、こんな不自由な礼拝はありません。そんな礼拝は本当につまらないです。
格好悪くてもいいのです。笑われてもいいのです。誰を礼拝しているのでしょうか? 礼拝の中心はなんでしょうか? 自分の体裁ではなく、イエス様こそが礼拝の中心です。
私たちが誰かの目を気にしているとすれば、すでに私たちの思いが神様にではなく、誰か別の人に向いていることになります。人の目ではなく、自分に注がれている神様の目を気にしましょう。主は、あなたを熱烈に見つめて下さっています。
何度かこういう言葉を聞いたことがあります、「恥は我がもの、栄光は主のもの」。
麗しく謙遜に聞こえますが、私はこれは違うと思います。主は私たちの恥のためにも十字架について下さいました。恥も主が面倒みて下さいます。マリヤの受けた恥を、イエス様は即座に栄誉として下さったではないですか!ハレルヤ!
この、脇目も振らない大胆さ。どうやったら、なれるでしょうか?
主への熱烈な愛です。街中の恋人たちの姿を、見たことがありますか? 相手が大好きなあまり、周りの目を気にすることを忘れます。ぎょっとするくらい大胆です。
では、どうやったら、主への熱烈な愛が生まれるでしょうか?
それは御霊の油注ぎです。聖霊様が私たちに花嫁の油注ぎを下さる時に、私たちは主だけをみつめる花嫁の愛を抱くことが出来るのです。
異言で祈り、聖霊様との交わりを大切にし、花嫁の油注ぎを熱心に求めていきましょう。
そして、みんなで、マリヤの様に主の心を揺さぶる礼拝者となっていきましょう!ハーラル、ハーラル、ララララ~♪♪
■A:考えてみよう
自分にとっての石膏の壺は何だろう。その壺をいつも割って礼拝しているだろうか?
自分が礼拝する時に、自分の心の目が向いている方向は何だろう。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 みちる 】
オンライン献金はこちらから。
大きな額の献金は手数料の少ない口座振り込みをお勧めいたします。