■S:今日の聖書の言葉
民数記35章25節(同36章)
★ 会衆は、その殺人者を、血の復讐をする者の手から救い出し、会衆は彼を、逃げ込んだそののがれの町に返してやらなければならない。彼は、聖なる油をそそがれた大祭司が死ぬまで、そこにいなければならない。
■O:今日のコラム
今年の始めに、祈っていると、いざ戦いの勇士が軍馬に乗って走り出した時に、足や体に傷を負っている馬がバタバタと倒れ、また、別の馬は、横の馬を気にしながら走るため、なかなか早く走れない…というような映像が頭の中に映りました。
祈り続ける中で、それが、終わりの時代に最前線に立ち、とりなし礼拝する主の軍勢、すなわちダビデの幕屋を担う者たちであるという事が分かりました。
ダビデの幕屋は、勇士のように勇敢に戦い、激しく責め取っていくという側面の他に、傷ついた心が癒され、過去の失敗から回復する、というとても大切な側面があることを忘れてはなりません。
私たちは、幕屋の中にまず保護され、そこで癒されていく必要があるのです。
「それは、主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい、岩の上に私を上げてくださるからだ。」(詩篇27章5節)
「主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。」(詩篇121章3節)
祈りによって勝ち取る大勝利や、目に見える成功を喜ぶと同時に、心の傷やとらわれが癒され回復していくという、1人の魂の内に起こる小さな変化も共に喜び祝い合いましょう。
なぜなら、私たちはキリストの体だからです。小さな器官であったとしても、体の傷ついてどうしようもなかった部分が癒される時、体全体が自由になり、前よりもスムーズに進んで行くのを感じます。
そして私たちは気づくのです。1人の回復が皆の祝福であり、1人の癒しが神の家族全体の勝利であるということを。
この国の救いは、個人プレーでは成し遂げられません。キリストの体である教会全体が愛において成長し、共に一致して前進して行く時に、それは、強くて巨大な弾丸となって、サタンを打ち倒し、神の御国をもたらす力となるのです。
神様は完璧に出来る人や、強い人を必要としてはいません。
神様は弱い部分をことさらに尊び、弱い器を選び、弱い者を用いられるお方です。
神様は、「弱い者に『私は勇士だ。』と言わせよ。」と言われるお方であり、「最も小さい者も氏族となり、最も弱い者も強国となる。」と言われるお方です。
神様の戦略は、貧しい者の足、弱い者の歩みで、偶像を踏みつけることです。(イザヤ書26章6節)
聖書の中で活躍した人物はみな、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となった者たちです。
ダビデがサウル王から逃れ、アドラムのほら穴に避難していた時、ダビデの元に集まったのは、400人の全員何かしら大きな問題を抱えた人たちでした。
神様はこの者たちを素晴らしい勇士へと造り変えられたのです。
今日の本題である「のがれの町」―
これは、故意ではなく、あやまって石を落として人を殺しまった人が、復讐する者の手から守られ、かくまわれる場所でした。
このような失敗者がのがれの町に入り、その中にとどまることが許されたのは、大祭司の存在のゆえです。
彼は正しく審判された後に、やがて大祭司の死ぬ時にその罪が贖われ、のがれの町から出て行くことが出来ました。
6つののがれの町(15節)、大祭司の死… これらは、やがて来る7つ目ののがれの町、大祭司である神の子イエスがいけにえとなって捧げられた十字架の元であることが分かります。
今日、私たちは、この場所で自分の罪を告白して悔い改めるならば、完全に赦されるのです。
過去の失敗は十字架で流された主イエスの血潮で赦され、帳消しにされました。過去のどんな痛みも傷も、イエス様の打たれた傷ゆえに癒されるのです。
のがれの場所は、隠れ場であると同時に心の動機をとことんまで探られます。
そんなつもりはなかったのに…。
一生懸命やっていたのに…。
自分が望んでいたことではないのに…。
でももしかしたら、自分に非があったのかもしれないー。
このように、主のみ前に行くとき、聖霊様は私たちの心の深くまで探られます。
その過程は、本当に苦しいものです。自分の内側を見ることは、穴があったら入りたいほど、恥ずかしさがやってきます。
しかし、私たちが罪や弱さを認め、主に告白し、赦しを受け取るなら、そこから立ち上がって出て行くことが出来るのです。
この朝、まことのがれの町に行きましょう。
■A:考えてみよう
かつてののがれの町は、一日かけて行くような長い距離でした。しかし、新しいのがれの町は、どこか遠い場所ではなく、すぐ目の前にあります。
「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」(ローマ人への手紙10章8節)
この場所でただ静まり、主の御顔を仰ぎ見ましょう。
■P:祈り
主よ、私ののがれの町は十字架の元です。
この場所で、私は罪を悔い改め、赦しと平安を得ることを求めます。
十字架の血潮で絶えず私をお守り下さい。
私の心を探り、調べ、傷ついたところをお癒し下さい。
仕事があったり、また、子供の世話、親の介護で礼拝に行けなかったり祈りに行くことが出来ない時、神様を遠くに感じてしまいますが、物理的な距離は関係なく、神様との霊的な距離が重要であることを覚えます。のがれの町はいつもすぐ近くにあるということを思い起こさせて下さい。
また、主イエスの弟子である私も祭司です。
師なる大祭司イエスがされたように、いつも自分自身を捧げ、傷ついた魂、問題を抱えた者を愛し、受け入れ、彼らがミニスターへと変えられて行くよう、励まし、祈り、彼らに寄り添う者とさせて下さい。
弱い者が勇士へと変えられ、傷ついた者が癒され、主の軍勢とされるのがれの町が、日本全国に打ち立てられて行きますように。
海外まで行かずとも、他の教会に行かずとも、キリストの体であるそれぞれの所属教会の中にのがれの町が出来る、その願いと情熱と聖霊の油注ぎをイエスの御名で宣言します。
かつて6つもののがれの町があったように、礼拝、祈りの家、セルグループ、ミニストリー、フェローシップ、学び会など、全て人の集まる場所が、楽しいだけの集まりの場ではなく、人々が変えられ、癒され、主の勇士となる、のがれの町となっていきますように。
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 ひさえ 】
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