■S:今日の聖書の言葉
民数記29章2節 (同30章)
★ あなたがたは、主へのなだめのかおりとして、全焼のいけにえ、すなわち、若い雄牛一頭、雄羊一頭、一歳の傷のない雄の子羊七頭をささげなさい。
■O:今日のコラム
ここで書かれている「主へのなだめのかおり」。「なだめ」と聞くと、なんだかぷんぷん怒り気味の人を「まぁまぁ」と肩をたたいて、なだめすかすようなイメージがありますが、そうではありません。
口語訳では「主に香ばしいかおり」、リビング・バイブル訳では「わたしはこのいけにえが大好き」とあります。つまり、この章で何回も出てくる「なだめの香り」とは主が大好きな香りであり、そのために捧げられるものが、主は大好きなのです。
何故でしょう?
主に香ばしいかおり。この「香ばしい」という言葉、原語では「ヌワーハ」で「休息、憩い」という意味があります。わたしたちが捧げる時に、それが主にとっては憩い、休息となるのです。だから、主はこのいけにえが大好きなのです。英語では“sweet”と訳されています。私たちの捧げものは、主にとって甘い香りなのです。
イザヤ書66章1節 「主はこう仰せられる。『天はわたしの王座、地はわたしの足台。わたしのために、あなたがたの建てる家は、いったいどこにあるのか? わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか?』」
ここで主が言っておられる「いこい」はこの“ヌワーハ”です。
主はいつもご自分が憩うことの出来る場所、香ばしく甘いかおりの立ちのぼるところを探しておられます。
主の大好きないけにえとして「全焼のいけにえ」が出てきます。何も自分や誰かのために、取り分けたり、残したりしない、全部捧げきる「全焼のいけにえ」です。この章で出てくる「捧げる」という言葉、他には「近づく」と言う意味で使われています。
私たちが、主にいけにえを捧げるためには、私たちは主の御そばへと近づきます。捧げる時に、それは私たちが主の御もとに座るような主との親しい交わりの時となります。
私たちが自我に死んで、自分の人生のすべてを(自分の心、思い、時間、経済…etc)自分や他の何かのために取り分けることなく、捧げきるときに、焼き尽くすときに、そこが主にとっての憩いの場となることが出来るのです。
王の王が、愛する方が自分の家に訪ねてこられたら、最上のもてなしをして、最上の憩いを得て欲しいと思います。
私たちがいけにえとして、賛美、礼拝、また、自分自身を主に捧げる時に。いえ、捧げきる時に、まどろむこともなく眠ることもない、忙しく働かれる主が、やっとその中で憩うことが出来るのです。
主がそこで憩われ、臨在する時に、私たちにとっても、そこが安息の場所となります。主と人間が共に憩うことが出来る場所、エデンの園のようです。なんと甘い時間でしょうか。永遠にそのように主と共に過ごすことを夢見ます。
私たちの日々の個人的な礼拝の時間が、主と自分の憩いの時となりますように。
■A:考えてみよう
自分は主を働かせてばかりいないだろうか? 自分は主の憩われる場所を設けているだろうか?
祈りの時は自分にとっても安息の時となっているだろうか?
エデンの園のような、主とともに安息する時間を夢見ましょう。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 みちる 】
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