■S:今日の聖書の言葉

民数記24章1、2、5節(同23章)

★ バラムはイスラエルを祝福することが主の御心にかなうのを見、これまでのように、まじないを求めに行くことをせず、その顔を荒野に向けた。バラムが目を上げて、イスラエルがその部族ごとに宿っているのをながめたとき、神の霊が彼の上に臨んだ。

なんと美しいことよ。ヤコブよ、あなたの天幕は。イスラエルよ、あなたの住まいは。

■O:今日のコラム

バラムは、間違いなく預言者です。かつては、大きく用いられた器だったのでしょう。

だからバラク王は、『何でもあなたが言った通りになる』と言っています。しかし、その名バラク(=その民でない)が示すとおり、神の民の歩みからは外れたものとなっていきました。

民数記23章3節で、主の御声を聞くために上って行った『裸の丘』は、イザヤ書、エレミヤ書を見ると偶像礼拝の象徴です。

しかも、民数記24章1節で、主の御声を求める方法は、まじないであることが明らかにされます。あわれみの故に主は語りかけ続けてくださっていますが。

しかし、バラムはここに来てついに『まじない』をやめました。

そして荒野に顔を向け、目を上げたとき、神の霊が下ってきて、これまでのようにただ語りかけがあるに留まらず、主のなさることの美しさを見ることができるように、感じることができるように、霊的な目、心の目が開かれたのです。ハレルヤ!

私たちが神の計画の美しさ、主ご自身の麗しさ、主のなさることの素晴らしさを見るには、神の霊によらなければありえません。

荒野に顔を向けるとは、主ご自身との交わりを求めることに立ち返る事を意味し、目を上げることは、主の御顔をあがめる事を意味します。その時、神の霊が注ぎ、主の麗しさを見るのです。
まじないは、ある意味では、『決められた方法によって啓示を受けようとする』と言い換えることもできるでしょう。

何分間賛美をして、何分間この祈りをして、何分間聖書を読むと語られるとか。

ある場合には、それでも主は、御声を聞かせて下さることはあるでしょう。しかし、主ご自身を慕い求める心、主の御顔を拝める心を持って主の御前に出るならば、御声がかかる以上のこと、主の計画の美しさ、主ご自身の麗しさを見ることができるのです。

方法ではないのです。心です。主は、私たちの主をしたい求め、砕かれた心を求めておられるからです。

■A:考えてみよう

今日も主の御前に乾いた心、主ご自身を慕い求める心を持っていこう!
方法に頼らない事を覚えよう! 

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 まじまこ 】

カテゴリー: マナメール

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