■S:今日の聖書の言葉
レビ記22章10-11節(使徒の働き21章)
★ 一般の者はだれも聖なるものを食べてはならない。祭司と同居している者や雇い人は、聖なるものを食べてはならない。祭司に金で買われた者は、これを食べることができる。また、その家で生まれたしもべも、祭司のパンを食べることができる。
■O:今日のコラム
祭司と一緒に住んでいる者、また雇用されている者と金で買われた者。どちらが世の中で上と見られるでしょう?
当然前者です。では、祭司のパンを食べることが出来るのはどちらでしょう?
何と後者です。
この祭司のパンを食べられるかどうかのポイントはどこにあるのか?というと、祭司の所有であるかどうかにあるのです。
同居人や雇用者は、祭司の所有ではありません。祭司の所有であるなら聖なるものの味わいに預かることができるのです。
私たちは、神の所有とされた民です。イエス・キリストの十字架によって贖われたからです。このことは、大切なことであり、決して私たちを窮屈にするものではありません。そしてむしろ積極的にこの権利を主張すべきです。
誰に対してでしょう?
この世の支配者に対してです。
このところ使徒の働きを読んでいると思います。そこからも言えることです。
使徒の働き22章でパウロがエルサレムでローマ兵に捕まってしまった時のことです。
パウロは今にも鞭打たれ取り調べを受けようとしている時に、パウロが「私はローマ市民だ」というと状況は一変します。
聖書にはこう書いてあります。『このため、パウロを取り調べようとしていた者たちは、すぐにパウロから身を引いた。また千人隊長も、パウロがローマ市民だとわかると、彼を鎖につないでいたので、恐れた。』(使徒の働き22章29節)
パウロのこの言葉に鎖で縛っていた者達は、恐れ退いたのです。
私たちも鎖がまとわりつくときがあるでしょう。病いという鎖、怒りという鎖、貧しさという鎖。
パウロが「ローマ市民だ」と宣言したように、私たちは、「自分たちが神の民である」と宣言しなくてはなりません。そのとき悪霊たちは、鎖につないでいたので恐れるのです。
宣言を遅らせてはなりません。パウロとシラスがピリピの牢獄に入れられたとき、釈放が決まってから、「私はローマ市民だ」、と宣言しましたが、すでに鞭打たれ、傷を負いました。
■A:考えてみよう
悪の鎖を覚えたら、すぐに「私は神の民である。悪しきものよ。退け!」と宣言しよう!
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
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