■S:今日の聖書の言葉

レビ記18章3-4節(使徒の働き18章)

★ あなたがたは、あなたがたが住んでいたエジプトの地のならわしをまねてはならない。またわたしがあなたがたを導き入れようとしているカナンの地のならわしをまねてもいけない。彼らの風習に従って歩んではならない。

あなたがたは、わたしの定めを行ない、わたしのおきてを守り、それに従わなければならない。わたしは、あなたがたの神、主である。

■O:今日のコラム

この章の6節で 「あなたの母を犯すことをしてはならない。」 という戒めが出てきます。このあとにも 「〜を犯してはならない。」 という戒めが何節にも続きます。

一見「そんなの当たり前~(>-<)!」と思ってしまいますが、おそらく、この時代には、このような戒めがなければならないほどに、不品行が横行していたのでしょう。 「あなたの母を…」などのような戒めを見ると、そんなことが言われないと、それが罪だと分からなかったのだろうか… と驚いてしまいますが、私たちの日々の生活の中にも、実は聖なる主から見ると、主の心を痛める「罪」の基準が潜んでいるかも知れません。 実際の生活だけに限らず、私たちの思いや心の中に潜み続けているものもあるかも知れません。 この世の基準での考え方や、また世の中の法律では「罪」とは定められていないことであったとしても、主の目から見ると「罪」となるもの。家庭や友人、同僚の間では「OK」と見なされていることなどなど。 イスラエルの民は、選ばれた民として、他の民と同じ基準で生きることは許されませんでした。厳しさが前面に出ているように感じます。 けれども、この節の最後には「わたしは、あなたがたの神、主である。」と主が語って下さっていて、これは「あなたは私の民なのだから。わたしがあなたを愛し守る神なのだからだよ。」という主の特別な愛なのだと感じます。 子どもたちを罪から守るための基準を設ける際、時として、それは子どもたちにとっては好ましくないことがあります。 我が子が小さい頃は「どうしてあの子はいいのに、ボク(ワタシ)はダメなの?」と聞かれました。 我が子を罪から守ることが、自分に任されていることですし、親として、我が子を罪から守りたいという愛が働きます。 けれども、人様のお子さんにまで、とやかく言うことは私には任されていません。ですから、よその子どもにその基準を設けることはしません。 同じように、主は愛する子どもとして、私たちにも罪から私たちを守る基準を設けられています。ときに、それは私たちにとっては好ましくなく、また高いように感じる基準もあります。けれども、それは天の御父の、子を想う愛です。 主はこの章で、またレビ記の中でも何度も何度も「わたしはあなたの主である」と語っておられます。同じように、主はいつも私たちに「わたしはあなたの神なのだよ。私はあなたの父なのだよ。」と語って下さっています。 イスラエルの民があらゆるいけにえをもって、追求し続けた聖さを、私たちは小羊なる主イエス・キリストの血潮によって受けることが出来ます。なんという恵みなのでしょうか! 私たちは日々、十字架の血潮によってきよめられることを求め、また宣言し、御父の愛のゆえに設けられている「聖さの基準」を保っていきましょう。 ■A:考えてみよう

自分は、知らず知らずに主の心を痛める「罪の基準」に歩んでいないだろうか…?

主を知らない人々の中で(家庭、学校、職場などで)、主の聖さの基準に生きることは、とても大変だと思います。それを自分の力で成し遂げようとするならば、難しいでしょう。

けれども、聖霊様により頼む時、出来なかったことが出来るようになります。

汚れや不正を拒むことは、勇気がいるでしょう。そんな時こそ、御霊の助けが必要です。

つねに、聖霊様を自分の内に歓迎し、内側に溢れていただきましょう!

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 みちる 】

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