■S:今日の聖書の言葉
レビ記11章44節(使徒の働き11章)
★ わたしはあなたがたの神、主であるからだ。あなたがたは自分の身を聖別し、聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。地をはういかなる群生するものによっても、自分自身を汚してはならない。
■O:今日のコラム
僕は小学生の頃、学校から家がとても遠く、小学生の足で1時間位かかる山の上に住んでいました。なので、帰り道にも様々なハプニングがあります。よくあったのが犬のフンを踏んでしまうこと。(朝からスミマセン)
そしたら友達が大騒ぎして「ニッキバリア(関東ではエンガチョといのでしょうか?)」と言って、僕から離れていくのです。僕は犬のフンを踏んだということで汚れたものとみなされたのです。
私たちが読み進めているレビ記では、一貫して「聖め」と「汚れ」が語られています。
今日の11章では、動物に関する「聖め」と「汚れ」がかかれています。
ユダヤ人が豚を食べないのはここに由来しています。
ここに書かれている「聖別」とは、原語で「カドシュ」と言います。その意味は「聖める」という意味と同時に、「分ける」と言う意味があります。つまり、「聖別」と言う言葉はとてもわかりやすく訳されている言葉と言えます。
なぜ、繰り返し繰り返し「聖別」が書かれているのでしょうか。
それは神様が聖いお方であるからです。
レビ記の中で、汚れたものは一定の規定に従って処理をすると、汚れたものから聖められます。
例えて言うなら、犬のフンを踏んだ僕は靴を水で洗い流すと汚れは落ち、きれいになります。
同じように、外から汚されたものに関しては、自分で聖めることができるかもしれませんが、心の中までは聖める事ができません。
しかし、私たちの心を聖めることのできる唯一のお方がおられます。
それがイエス様です。
イエス様はなぜ、十字架にかかられたのでしょうか。
それは、私たちを縛る永遠につきまとう問題、死からの解放のためでした。
死をもたらすものは罪です。つまり、アダムの時に人類に入った罪から、イエス様の十字架が私たちをカドシュしてくださったのです。
これこそが神様の愛です。
「そして自分から十字架の上で私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(ペテロの手紙 第一 2章24節)
私たちはイエス様の十字架の故に、罪からカドシュされました。
私たちと神様のあいだにあった罪という大きな壁は既に取り除かれました!
ハレルヤ! 私たちはイエス様の血潮によって聖められました! 大胆に主のみもとに走って行きましょう!
■A:考えてみよう
今日のみことばで前半は「聖」についてかかれています。しかし、後半で「地をはういかなる群生するものによっても、自分自身を汚してはならない。」と語られています。
私たちは十字架の血潮によってカドシュされました。
次は私たちの責任です。私たちは「聖さ」を保たなければなりません。
地をはうもの、群生するものとは創世記にも出てきますが、蛇に例えられています。
蛇とはサタンの象徴としてかかれています。サタンはこの世の支配者です。
ここから出るもの、つまり「すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。」(ヨハネの手紙 第一 2章16節)から、私たちは自分自身を遠ざけなければなりません。
しかし、それを肉(自分の)の力で、何とかしようとすると、余計にこれらのとりこになってしまいます。
それではどうすればいいのでしょうか。
それは聖霊様により頼むことです。シンプルでいいので、真心を持ってこのように祈りましょう。
■P:祈り
聖霊様、あなたを私の人生に歓迎します。わたしには○○という弱さがあることを認めます。
これは、私の力ではどうすることもできません。だから、聖霊様、あなたが私の○○という弱さをとって下さい。イエス様の十字架の血潮をここに注いで下さい。そして、わたしが○○に支配されることがないように、また○○で心が満たされることがないようにして下さい。
むしろあなたに対する飢え渇きが増し加わり、あなたでしか心が満たされないようにして下さい。
この祈りを愛するイエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。
【 しゅん 】
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