■S:今日の聖書の言葉
マタイによる福音書18章15節 (ヨブ記20章)
★ 「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。」
■O:今日のコラム
この箇所は決して 「間違った人がいたら、行って責めましょう!」 という裁きを勧めているわけではありません。詳訳聖書では「責めなさい」という部分が「彼のあやまちを示しなさい」 とあります。実際は 「責める」 のではないのです。
イエス様がこの章で語られていることの中心は5節 「また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。」 であると信じます。つまり 「愛し受け入れる」 ことがすべてのベースにあります。愛される時に、人は悔い改めへと導かれます。
この15節 「行って、彼のあやまちを示す」 ことのお手本は放蕩息子のお父さんです。
ルカ15章20節 「ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。」 ここは父なる神の愛と御子イエス・キリストの愛が描かれています。
この父親は責めるつもりで待ちかまえていたワケではありませんでした。息子が謝罪する前に、すでに、息子を赦し、その場所で息子を待っていました。また、自らが出向いて走り寄る姿は、御子イエス・キリストがこの地上にまで来て下さった愛と同じです。
私たちは、責めたり裁いたりするために出向くのではなく、御子イエス・キリストがされたように、愛と赦しを示すために出向かなくてはなりません。もちろん、それは時には、簡単ではないでしょう。事実、私自身にとって、それはとても難しいことです。
「赦すこと」はクリスチャンにとってもとても大きなチャレンジでしょう。相手がクリスチャンであるならば、尚更、難しいのではないかと感じます。そして、それはいつの時代でも私たちの大きな課題です。
しかしながら、終わりの時代、サタンは教会の外ではなく、教会の中の一致を壊そうと、不一致の霊をもって、激しく攻撃してくるでしょう。私たちはこの「赦す」という武器をもって、常にそれに対抗しなくてはならないのです。
隣を見ていると、なかなか腹も収まらないでしょう。私たちは主を見上げ、主を見つめ続けることによって真の一致を保つことが出来るのです。
19節では 「もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。」 とあります。
これは、1人の祈りは聞かれない、という意味ではなく、一致することには力がある、一致する祈りには力があるということをあらわしています。
唯一正しいお方、唯一義なるお方は主イエス・キリストだけです。すべての人間関係において、自分の義を通すのではなく、へりくだって、神の義を通すことが出来るように求めていきましょう。そうする時に、サタンが嫌う 「一致」 がもたらされ、必ず主の栄光が現されると信じます。
「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱を報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」 (ペテロの手紙 第一 3章9節)
■A:考えてみよう
通そうとしているのは自分の義だろうか? それとも神の義だろうか?
■P:祈り
すべての人間関係において、私がいつも主の正しさ、主の義に立ち返ることが出来るように助けて下さい。私が掲げたいのは、主の義とあなたの赦す愛です。唯一正しいのは、主よ、あなただけです。
私が、自分の義を主張することがないように、いつも、イエス様あなたにならって、へりくだりを身にまとうことが出来ますように。そして、その代わりにあなたの愛をもって、相手のところに出向くことを教えて下さい。
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 みちる 】
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