■S:今日の聖書の言葉
ローマ人への手紙3章23~24節

★すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

■O:今日のコラム
2021年が始まったかと思えば、あっという間に4月になろうとしています。皆さんは、この数ヶ月をどのように過ごしているでしょうか。コロナによって、私たちの生活や仕事、様々な働きに制限がかかるようになり、自粛、自粛という雰囲気も加わって、気持ちが沈んだり、不自由さや困難、葛藤や孤独を感じているかもしれません。

しかし、制限されたり、閉ざされたりする中で感じるのは、今までが「恵み」であったということです。私たちの生活も、仕事も、教会や祈りの家の働きも、これまで出来ていたことは、自分の努力や行い、人の力によってではなく、ただ、主が与えて下さった「恵み」です。制限されたり、閉ざされたりする時に、私たちの感情においては「なんで!?」「どうして?」というのが最初に出てきます。いつの間にか、それらが当然のように、当たり前のことだと思っていたがゆえの反応です。しかし、その当たり前と思っていたことを失った時、私たちは気付かなかった恵みがどれほどたくさんあったかを知ります。

「恵み」とは、原語では「カリス」という言葉が使われています。これは、一方的な好意として与えられる祝福を意味し、「~をしたから」という行いは関係なく、受けるに値しない者に与えられるものです。しかし、それとは反対に、良いことでも、悪いことであっても「~をしたから」という行いによって与えられるもの、受けるに値する者に与えられるのは「報い、報酬」です。

今日の箇所を読むならば、すべての人が受けるべき当然の「報い」と「恵み」がはっきりと記されています。それは、「すべての人は罪人」であり、受ける「報い」は、死という永遠の滅びであること(ローマ6:23参照)。しかし、同じように「すべての人」は、キリスト・イエスの贖いのゆえに、「義と認められる」という「恵み」を与えられているということです。

これは、「すべての人」に当てはまることです。義人は一人もいないと、聖書にも書かれているように、私たちがどんなに努力しても義は得られません。しかし、そのような私たちをイエス様の十字架の贖いと血潮によって、義と認めてくださる、弁護して下さる、偉大な恵みが与えられていることを感謝したいと思います。

「神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。」(エペソ1:5~7)

主の心は、変わることがありません。いつも真実な愛と豊かな恵みに満ちています。しかし、私たちの心は、変わりやすく、肉の性質を持っていて、時間が経つと、神の恵みを忘れてしまったり、自分の方法や力に頼ろうとしてしまいます。

イスラエルの民もそうでした。詩篇119篇は、エズラが書いたのではないかと言われていますが、イスラエルの民が神の恵みを忘れて、自分の力で繁栄を求めた結果、神から与えられた地を失い、神を礼拝する神殿も失ってしまった、そのような中でこのように告白しています。

「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。」(詩篇119:67)

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。」(詩篇119:71~72)

苦しみや痛みを通して、神のみおしえ、御言葉が何にもまさる喜び、幸いであることを悟ったように、私たちも苦しみや痛みを通して、主が与えてくださっている恵みを思い起こし、悔い改め、御言葉に幸いを見いだし、御言葉により頼む者、満たされる者となっていきたいと願います。

苦しい、痛いと思うことは、肉体的なことだけでなく、精神的なこともありますし、個人だけでなく、家族において、教会という共同体においても感じる時があります。

今は過越の祭りのシーズンの中にありますが、苦しみと痛みを味わう時、イエス様の十字架の苦しみ、痛みの一端でも味わうことが出来る恵みに預かっているのだと、感謝したいと思います。そして、忘れてはいけないのは、どのような苦しみであっても、必ず終わりがあること、この苦しみの先には喜び、希望、勝利があるということです。

最後に、私自身の話になりますが、去年の4月に出産という経験をしました。37時間を超える陣痛で、私の体力は限界になり、最後には、産み出すための有効な陣痛がこないので促進剤を点滴しました。急に激しい痛みがやってきて3回も吐いて、もう無理!もう無理!と何度も泣いて叫びました。

このコロナ禍で、立ち会いも面会も禁止され、分娩室で1人という状況が何度もあり、痛みだけでなく、孤独も感じる中において、最初は「なんで立ち会いも面会も出来ないんだ」と不満と不安を口にしていました。しかし、そんなこと言っていても、この状況を変えることは出来ない、痛みはどんどん強くなっていく、、、私は、ただ、イエス様の十字架を見上げるしかありませんでした。そして、「イエス様の苦しみや痛みはこんなもんじゃない!」「主よ、あなたの苦しみとは、到底比べることは出来ないけれど、この苦しみ、痛みを味わうことができることを感謝します!」と告白し、祈りました。

産まれる直前に、赤ちゃんの心音が取れなくなり、出血も多く、最後まで命がけでしたが、そのようにして生まれた我が子を見た時の喜び、感動はこれまで人生で味わったことがないものでした。長かった37時間も、苦しかったすべての痛みも涙も忘れて、ただ、息子を胸に抱きました。もうすぐ1歳になりますが、本当に愛おしく、主が与えてくださった尊い命に感謝するばかりです。

すべての苦しみ、痛みに耐える力は十字架にあります。私たちが信仰の歩みにおいて、キリストの苦しみ、死、復活にあずかることは恵みです。なぜなら、その中においてキリストの性質、ご人格、御言葉が、私たちの内に受肉していくからです。

もし、今の状況の中に望みを見出せなかったとしても、苦しみと痛みを通っていたとしても、自分の力により頼むことや、自分の方法で何かをすることを手放して、十字架の前に進もうではありませんか。そして、偉大な恵み、イエスキリストの十字架と血潮の贖いにより頼み、その御業をほめたたえ、賛美を捧げていきたいと願います。

変わることがなく、尽きることがない神の恵みが今日もお一人お一人の上に注がれていることを感謝して。

「私はあなたの恵みに拠り頼みました。私の心はあなたの救いを喜びます。私は主に歌を歌います。主が私を豊かにあしらわれたゆえ。」(詩篇13:5~6)

■A:考えてみよう
今日、自分の生活や仕事、教会や働きにおいて、出来なくなったこと、失ったことを考えるのではなく、主の恵みにより出来たこと、与えられたことを思い起こしてみましょう。

主の恵みなくしては、私たちは今日生きることさえ出来ません。主の恵みなくしては、今までも、これから先も何も出来ない者であることを認めましょう。主の恵みはへりくだる者、待ち望む者の上に注がれます。この朝、今一度、へりくだり、十字架の前に進み、主の恵みとあわれみ、主の義を受け取る時間、待ち望む時間を持っていきたいと願います。

「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。『あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。」(哀歌3:22~24)

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

■感謝
これまでマナメールの奉仕に関わらせて頂けたこと、マナメールを分かち合う中において、主が与えてくださった数多くの恵みに心から感謝します。

これまでマナメールを読んで下さった皆様、長年に渡り、マナメールの働き、配信を担って下さった先生方、お一人お一人に感謝致します。全ての栄光がただ、主にありますように!

【 ささまな(いわまな) 】

カテゴリー: マナメール

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