■S:今日の聖書の言葉
使徒の働き25章11節
★もし私が悪いことをして、死罪に当たることをしたのでしたら、私は死をのがれようとはしません。しかし、この人たちが私を訴えていることに一つも根拠がないとすれば、だれも私を彼らに引き渡すことはできません。私はカイザルに上訴します。」
■O:今日のコラム
この25章には、3人の権力者が登場します。総督ペリクス、後任の総督ポルキオ・フェスト、ユダヤのアグリッパ王です。彼らは絶大な権力を持っていますが、責任を取って決断することを逃れようとします。
ペリクスは判決を行わず2年先送りし、フェストもパウロの無罪を知りながらローマ護送を選択し、責任の一端をアグリッパ王に背負わせています。
「二年たって後、ポルキオ・フェストがペリクスの後任になったが、ペリクスはユダヤ人に恩を売ろうとして、パウロを牢につないだままにしておいた。」(使徒24:27)
「ところが、ユダヤ人の歓心を買おうとしたフェストは、パウロに向かって、『あなたはエルサレムに上り、この事件について、私の前で裁判を受けることを願うか』と尋ねた。」(使徒25:9)
上記の御言葉の「恩を売ろうとして」「ユダヤ人の歓心を買おうとした」これらがぺリクスとフェストに共通する点です。
ユダヤ人たちのご機嫌を取らないとユダヤでの支配が難しかったことが分かりますが、このような状況下で拘束されても、パウロは「ローマでもあかしをする」(使徒23:11)という主の言葉に信頼し、約束に堅く立ち続け、一貫して自らの主張を述べ続けました。
人の前に立つ人と神の前に立つ人、人を見る人と神を見る人、人を恐れる人と神を恐れる人、責任を逃れようとした人と責任を担った人、これらのコントラストがここで見えてきます。
様々な状況を「人の目線」で見るならば、前進していないかのように見えることがあるかもしれません。しかし「主の目線」は違うことを覚えます。主はご自身の御心とご計画を、確実に、着実に、成し遂げられるお方です。
「そこでモーセは宿営の入口に立って「だれでも、主につく者は、私のところに」と言った。するとレビ族がみな、彼のところに集まった。」(出エジプト記32:26)
パウロのように、上記の御言葉のレビ人のように、私たちは神の前に立つ人、神を見つめる人、神を恐れる者、責任を担う者でしょうか。
終わりの時代に、選り分けが起こっていきます。今、地上に置かれているこの時に、揺り動かしを与えてくださる主の恵み、あわれみを感謝します。
ダビデが告白したように、絶えず主を前に置き、行く所どこにおいても主を認め、主の御前に立ち続け、主の側に着くものとして、終わりの時代の教会が歩むことができますように。
「そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。」(マタイ25:32,33)
「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。』」(ルカ22:31,32)
「不正を行う者はますます不正を行い、汚れた者はますます汚れを行いなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行い、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」』(黙示録22:11)
■A:考えてみよう
下記の御言葉を朗読し、黙想しましょう。御言葉に基づいた信仰が、今日一日、私たちの心と思いを満たしますように。
「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」(詩篇16:8)
「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3:5,6)
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 こばあい 】
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