■S:今日の聖書の言葉
エレミヤ書21章2節
★「どうか、私たちのために主に尋ねてください。バビロンの王ネブカデレザルが私たちを攻めています。主がかつて、あらゆる奇しいみわざを行われたように、私たちにも行い、彼を私たちから離れ去らせてくださるかもしれませんから。」
■O:今日のコラム
シャバットシャローム!
バビロンに攻められてきたゼデキヤ王は、祭司ゼパニヤに言付けしてエレミヤに遣わしました。その時に言った言葉が上にある言葉です。
ここで私は思いました。私たちが主を求める目的はどうしてなのだろう。私たちが主に聞く目的はどうしてだろうと。
ゼデキヤ王は、主に伺えば助けてくれるかもしれないという望みを持ちました。しかし、主からの返事は正反対のものでした。ゼデキヤ王はどういう思いになったでしょうか?しかも、主が南ユダに語ったことは過酷なものでした。
私たちも、何か困難、試練がある時、時に神頼みのように主に祈ることがあると思います。しかし、もしそうならなかった時、私たちはどのような反応をしますか?
『主に聞いたのに、状況が全然良くならないじゃないか!』とか、『せっかく主に聞いたのに、思っていた解決と違う!』
そのような反応を覚えるのではないでしょうか?
主を呼び求める目的
私たちの心に偶像がある時、どんなに主を求めても主は時として偶像を取り除くために試練を通ることを許されます。私たちが私たちの目的のために主に聞くからです。私たちは主に買い取られたものなので、自分自身のものではないのです。それなのに、あたかも自分の人生のように自分たちの計画、願いを主に押し付けてしまっています。
私自身がいつも問われる領域であります。主を求める目的は主を愛して、主のように形造られるためであるべきです。主が私たちの主人であり、王であり、神だからです。
主に聞く目的
主に聞く時に、私たちは祝福の道ばかりを求め主に聞くことはないでしょうか?
どうかこの試練を通過することができますように。この試練の中で主を見出すことができますように。そのような祈りができる者が成熟した者であるとアテフ先生はおっしゃっていました。
私たちは主に聞いても、その答えが自分の願うようなものでなかった時に簡単にその道から外れてしまいます。なぜならば試練、困難を避けたいからです。あるいは、その試練や困難に立ち向かえない信仰の幼さに留まっているのかもしれません。
私たちが困難や試練の中を通る時、まず主が主権者であることを認めることから始まります。主は良いお方であると同時に、主が絶対的な主権をお持ちであることを認めるべきです。
その時に、私たちが願っている状況でないとしても主が導いてくださっている平安の道を歩むことができます。
その中で悔い改めを学ぶかもしれません。へりくだりを学ぶかもしれません。あるいは、主の悲しみを学ぶかもしれません。それらは全て主のご人格であり、その一部を私たちは主の手の中で知ることが許されているのです。
■A:考えてみよう
『たとえそうでなくても』ダニエル書に出てくる勇士たちが言いました。
主が願っている目的は私たちの思いを遥かに越える高くて深い目的であります。
主の主権を認め、今日という素晴らしい日を感謝していきましょう。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
■感謝
マナメールの奉仕に携わることができた事は偉大な恵みでありました。毎回主が御言葉を教えてくださり、ただただ主に感謝するばかりであります。
読みやすい文章をお届けする力には欠けていましたが、恵みにより続けて書くことができました。これからの皆様の新しい歩みがさらに御言葉により豊かになりますように。
シャローム!シャローム!シャローム!!
【 あはごん 】
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