■S:今日の聖書の言葉
エレミヤ書23章5〜6節
★見よ。その日が来る。--主の御告げ--その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行う。
その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。その王の名は、『主は私たちの正義』と呼ばれよう。
■O:今日のコラム
ダビデに起こされた正しい若枝(ネーツエル)。それはナザレ人(ネーツエル)と呼ばれたイエス・キリストのことです。主は私たちの王となって治められます。主こそ私たちの正義です。
「正義」というヘブル語は他の箇所では「義」と訳し出されています。私たちにとって義とはイエス様です。
私たちの立派さや人と比べて優っているなどでは、私たちは義とは認められません。また、私たちの性質がどうしようもなければ、もはや望みが無いのではありません。私たちの希望はイエス様にあります。義なるイエス様に覆われ、カバーされて私たちは義と認められるのです。
時に私たちは人と話をするときに、「これが正しいのでは?」「これが良いのでは?」と論じ合います。
ある時には自分の意見が優勢になり、自分が正しい人であるかのような雰囲気になることがあります。そういう時、人は高ぶりやすいものです。しかし正しい方、私たちの義はイエス様だけです。そんな時もへりくだって「主よ。私は間違えることがあります。正しいのは主だけです。」という心を持つことは重要です。
ある時には、劣勢になり辱められるかのような時もあります。しかし自分で自分の恥を覆って自分を正しく見せる必要はないのです。私の間違っているところは「そうですね」と認め、へりくだって「主よ。不面目は私のもの。義はあなたのものです。」(ダニエル9:7)とただ主が覆ってくださることに信頼するようなこともあると思います。
そのように主が私たちの義であるという生き方、考え方が私たちの中で確かなものとされていく時、エレミヤ23章の先にあるエレミヤ33章が成就することを信じます。
「その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を芽ばえさせる。彼はこの国に公義と正義を行う。
その日、ユダは救われ、エルサレムは安らかに住み、こうしてこの町は、『主は私たちの正義』と名づけられる。」(エレミヤ33:15~16)
この聖句は23章と同じに見えますが、エルサレムに対して語られています。それは花嫁である新しいエルサレムです。「主こそ私たちの義である」という生き方を貫き通す者は「主こそ私たちの義である」という存在になるのです。
■A:考えてみよう
どんな時にも「私の義ではありません。主こそ私の義です」という心を持ちましょう。高ぶらず、辱められてもののしり返さず。主が覆ってくださることに信頼しましょう。
■P:祈り
主よ。私の義はイエス様です。どんな時にもとこしえまでも。
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 まじまこ 】
オンライン献金はこちらから。
大きな額の献金は手数料の少ない口座振り込みをお勧めいたします。