■S:今日の聖書の言葉
使徒の働き13章22節
★それから、彼を退けて、ダビデを立てて王とされましたが、このダビデについてあかしして、こう言われました。『わたしはエッサイの子ダビデを見いだした。彼はわたしの心にかなった者で、わたしのこころを余すところなく実行する。』
■O:今日のコラム
主はどの時代においても天から地を見下ろしてご自身の心にかなった信仰者たちを探し求めておられます。力でも能力でも才能でも名声でもなく、主はご自身と心が一つになった者に、ご自身の力と使命を託したいと願っておられます。
「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(第二歴代誌16:9a)
では主と心が一つになる。とはどういうことでしょうか。
この御言葉にある「全く一つになる」というヘブル語には「サレム」という言葉が用いられています。聖書の中でサレムの王とは誰でしょうか。それはメルキゼデクですが、ヘブルの手紙の記者はこのサレムの王メルキゼデクは永遠の大祭司であられるイエス様ご自身であることを解き明かしています。
「イエスは私たちの先駆けとしてそこにはいり、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました。」(ヘブル6:20)
では、「主と心が全く一つになる」ということは新約聖書の視点から見ると、私たちの心にサレムの王、永遠の大祭司であられるイエス様の王座が設けられ、イエス様の心が私たちの内に形造られていくことです。
パウロは「私たちには、キリストの心があるのです。」(1コリント2:16b)と言っています。私たちは自分の努力や熱心さだけでは主と一つ心になることはできません。キリストの十字架の贖いにより、主イエスの血潮によって罪の性質に支配された陰険な心がきよめられ、聖霊様の内なる働きを通してキリストの心が形造られていくのです。
それは全て偉大な神の恵みの故です。主の恵みは私たちの肉なる力においては不可能なことを成し遂げることが出来ます。
サウル王の時代に主は荒野でご自分の心にかなったダビデを見い出されました。この「見い出した。」という言葉は、「何度も、何度も繰り返し探し、ようやく見つけ出した。」という意味合いを持つ言葉です。主は人の表面的な部分ではなく心を見ておられます。主は預言者サムエルにこう仰せられました。
「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」(1サムエル16:7)
主は今の時代もご自身の心にかなった者を探し求めておられます。しかし残念ながら私たちがどれだけ素直で、純粋な心を持っていたとしても生まれながらの人の心はこのようなものです。
「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」(エレミヤ書17:9)
「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10~12)
では、誰が主の心にかなうことが出来るのでしょうか。それは父なる神が「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなった者だ。」と言われたイエス様が私たちの内に住まわれることによってのみ可能となるのです。
私たちの心がサレムの王、永遠の大祭司であられる主イエスが王座を設けたエルサレムとなりますように。今日この記事に記した御言葉一つ一つを黙想し、内なるエルサレム、主の王座が回復することを求めて祈りましょう
■A:考えてみよう
たましいの領域に主イエスの血潮の宣言をおこないましょう。
「私の中にキリストがかたち造られます。我が新しい人のたましいの都市エルサレムは、偉大な王の都となります。我がたましいの都市エルサレムは御霊によって神の御住まいとなり、三位一体なる主のための住まいとなり、聖なる方の住まいとなります。そして、私の心はいと高き方の王座となります。」
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 しんご 】
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