■S:今日の聖書の言葉
エレミヤ書7章2,3節
★主の家の門に立ち、そこでこのことばを叫んで言え。主を礼拝するために、この門に入るすべてのユダの人々よ。主のことばを聞け。
イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。あなたがたの行いと、わざとを改めよ。そうすれば、わたしは、あなたがたをこの所に住ませよう。
■O:今日のコラム
今日の聖書箇所は、イスラエルのバアル崇拝についての預言です。
聖書の中でバアルは代表的な偶像として出てきますが、実はバアルとは正式な名前ではなく、彼らが拝んでいた神には別の名前があったそうです。
ではバアルはどういう意味なのかというと、「夫」という意味だそうです。イスラエルは主と持つべきだった関係を他の偶像と持ち、結果としてそれが彼らの「バアル:夫」となってしまいました。
このようなことは私たちの人生においても起こりやすく、それに気づきにくいものです。私自身は礼拝が私の偶像となっていました。
祈ること、御言葉を朗読すること、教会で仕えること。これらは素晴らしいことであり、主を愛することでもあります。しかし、もし「主を愛する」という土台の上にするのでなければ、それはもっとも危険な偶像崇拝でもあります。
その偶像崇拝を止めるために主が取られる手段は、神殿を打ち壊すことです。神様は人の目に良く、正しく見えるもの「礼拝」でさえ、偶像になるのであれば打ち壊されます。
私自身の話になってしまいますが、一人の時間を過ごす中で、これまでの歩みを深く探られることを経験しました。そこで気付かされたのは、私がしてきた「礼拝」は正しい動機から出たものではなかったということでした。
礼拝をすることが「正しい」。祈ることが「正しい」。聖書を朗読することが「正しい」。私はこのような価値観から、祈りと御言葉に取り組んでいました。しかし、いつの間にかその考えが偶像となり、正しさを保つために礼拝するようになってしまっていました。
今日の箇所にあるように、人の言葉や評価、人が正しいとすることではなく、神様からの語りかけを聞き、主を正しく礼拝するために、行いとわざを改めることに取り組み、葛藤しているところです。
■A:考えてみよう
どうして御言葉を朗読し、どうして祈りの時間を聖別するのでしょうか。
自分が何に基づいてその選択をしているのか、一度確認してみましょう。
■P:祈り
主を本当に満たす歩みをすることができますように。
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 けいしろう 】
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