■S:今日の聖書の言葉
エレミヤ書4章1節a
★イスラエルよ。もし帰るのなら、―主の御告げ―わたしのところに帰って来い。
■O:今日のコラム
私は結婚して家を出ましたが、時々実家に帰ると、母は笑顔で私を迎え、美味しいご飯を用意して待っていてくれます。帰る場所があること、待っていてくれる人がいること、、、、本当に嬉しいことです。
肉の家族においてもそうであるならば、天のお父さんはどれほど私たちがお父さんのもとに帰るのを待っておられるでしょうか。救いを受け取った時だけでなく、今も、神の民である私たちの帰る場所は、主のもとであることを感謝いたします。
創世記で、父のもとにいたアダムとエバでしたが、罪を犯して彼らがしたことは主の御顔を避けるということでした。そして主はおっしゃいます。
「神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。『あなたは、どこにいるのか。』」(創世記3:9)
してはいけないことをした時に、私たちはまず、叱責されることを想像します。しかし、ここで主がまず発したのは、「どうして罪を犯したんだ、ダメって言ったじゃないか。」と言うのでなく、「どこにいるんだ。」ということでした。アダムがいるべき所にいないことを主は見ておられたのです。
この箇所を読む時に、罪を犯す私たち、弱い私たちだけれども、いつもいるべき場所は主のもとであると強く語られます。
日々の生活の中で、主の臨在から、みことばと祈りの生活から、主の前に出ることから離れているならば、天のお父さんの前に出ることを回復していきたいと願います。
どんな時にも待っていて、祈りに答えてくださって、時に叱責してくださり、私たちを満たしてくださる…私たちは主なくしては生きられないのだと思わされます。どんな時でも私たちがいるべき場所は主のもとです。
もう一つ、実際的に主のもとに身を置くことを超えて、父の家に帰るとは、主のみこころに帰ることではないでしょうか。
時に私たちは、どんなに実際的に身が主のもとにあっても心ここにあらずの時があるのではないでしょうか。また、知らず知らずのうちに父の心でなく、肉の心に支配され、この世の思いに囚われていることがあるのではないでしょうか。
それはまさに放蕩息子の兄の心です。放蕩息子の話は、弟だけでなく、実は兄も、霊的には父の家から出ている状態であったのだと思います。
父の家から出た弟がどうしてまた父の家に帰ることができたのか、、、今一度吟味しながらその箇所を朗読してみました。の中で心に留まったことは、この告白です。
「しかし、我に返った彼は、こう言った。『父のところには、パンの余っている雇い人が大ぜいいるではないか。』」(ルカ15:17a)
そうです。我に返り、父のもとに行こうというこの悟りによって、弟は父の家に帰ることができました。反対に兄は肉の思いに囚われて、本当の意味で父の家にいることが出来なかったのです。
「どうか、あなたの光とまことを送り、私を導いてください。あなたの聖なる山、あなたのお住まいに向かってそれらが、私を連れていきますように。」(詩篇43:3)
主の心に帰るための道筋は、ただ主の光であり、まことであるみことばです。そしてそのみことばの悟りは聖霊様にあって与えられ、私たちがどうであるかではなくて、この御霊の働きにあってのみ、唯一父の心へと帰ることができるのではないでしょうか。
ですから私たちも、毎日毎日みことばを悟らせていただき、父のみこころへと立ち返らせていただきましょう。
父の家にはパンがあります。イエス様が生まれた場所は、ベツレヘムですが、これはパンの家という意味があるそうです。つまり、父のもとからみことばを持って生み出された、ことばが人となったのがイエス様です。
そしてそのように生まれたイエス様だけが、リビングトーラー、つまりみことばという父のみこころと一つ心となってみことばそのものを生きられらお方です。
イエス様のように父のみこころを歩みたいと願う私たちは、父の家で豊かなみことばの真理を味わい、みことばから発することを受け取る時のみ、そのように歩めるのだと思います。
だからこそ、本当に主のみこころに歩みたいと求めれば求めるほど、これがみこころか、みこころでないか、ではなくて、主の光とまことにあって真の父のこころに行かせてくださいと祈りが出て来るようになりました。今日の箇所にあるように、右が違ったから左ではなくて、「主の家」に帰る必要があることを思わされます。
私自身、学生時代に主に深くとらえられ、主を愛したいと願ってこれまで歩んできました。走り始めた頃は、主に用いられること、主のために生きることこそ、主を愛する者の姿だと思っていました。
もちろんそれらは結果的に開かれていくことですが、しかし、弱さを覚える度、立ち止まる度、主が私を取り扱ってくださり、主を愛するとはみことばを愛することであると何度も教えてくださいました。働きがあっても、願いが開かれても、どんなものを得たとしても、主の真理がなければ、いつまでも渇きを覚えるのです。
だからもっともっと、主を知りたいと心から願います。走り方やフォームは日々変わっていかなければならないものですが、主を知りたい、この願いだけは変わらずいつも内にある願いです。変わっていくもの、手放すべきことと、変わってはいけなくて、むしろ深まっていくべきものがあるのだと思わされています。
黙示録19章にあるように、キリストの花嫁はみことばと一つとなった者です。父のみこころと一つとなった者です。私たちはこの花嫁として召されています。
ですから、さらに主を愛したいと願うならば、主のみこころであるみことばを味わい求め続け、この主のみこころであるみことばを悟られせていただくことを、妥協せず惜しみなく祈り求めてまいりましょう。私もこれを読んでおられるみなさまも、ますます、「みことば」に向かうことができますように。
マナメールの働きが終わる今、そのシーズンに入っていくと信じます。
最後に、放蕩息子が帰って来る所、大好きな箇所です。
「こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。」(ルカ15:20)
主のみこころに立ち返ろうと私たちが悔い改めて主のもとに進む時、主の方から私たちを走って捕らえ、喜んで迎えてくださることを感謝いたします。
■A:考えてみよう
・父の家から離れてまだ主を知らずに歩んでいる魂を覚えてとりなし祈りましょう。天のお父さんは、その魂が主のもとに帰ってくるのを待っておられます。
また、今主から離れて歩んでいる神の家族がいるならば、その方も抱いて祈りましょう。
・「あなたはどこにいるのか。」
アダムとエバへのこの語りかけは私たちにも語られているのではないでしょうか。父の家に身を置く時間が毎日の生活にあるでしょうか。それらが忙しさや、働き、何か別のものに奪われていないでしょうか。
まず実際的に主に身を置くからこそ、主は語ることができ、主は恵みを注ぎ、主の取り扱いは始まります。主に身を置くことは大前提です。この時間を聖別して今日も持っていきましょう。
(例えば、スマホを手放す時間を作り、その時間を主に捧げる、賛美を流して静かな環境を設けるなど、工夫できることもたくさんあると思います!)
・霊的にも、今日、光とまことにより、父の心に私たちが立ち返ることができますように。また、主の心を知りたいという願いさえも主が私たちに与えてくださるものです。私たちの中にその飢え渇きが注がれますように。
「わたしに近づくためにいのちをかける者は、いったいだれなのか。-主の御告げ-あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。」(エレミヤ30:21a~22)
■P:祈り
愛する主イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
全ての栄光が主にありますように。これまで読んでくださった皆様に、またこの働きを取りまとめてくださった先生方、配信チームの方々に心から感謝いたします。
【ゆうこ】
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