■S:今日の聖書の言葉
サムエル記 第二 19章24節

★サウルの孫メフィボシェテは、王を迎えに下って来た。彼は、王が出て行った日から無事に帰って来た日まで、自分の足の手入れもせず、ひげもそらず、着物も洗っていなかった。

■O:今日のコラム
私たちは生きていて、時に悲劇のヒロインを演じたくなる時があります。
「みんなはあんなに幸せそうに暮らしているのに、どうして私だけこんな生活なの…。私ってかわいそう。」と思ったり、「私だけこんな大変な思いをしているのに、どうして誰も分かってくれないの!世界中が私を心配するべきよ!」などと考えるかもしれません。

時にこういった考えが浮かんでしまうことは認めますが、それは聖書全体が言う真理ではありません。
今日はメフィボシェテを通して神の子としてのアイデンティティーを見たいと思います。

ちなみに、明日の個所に出て来るメフィボシェテはサウルとアヤの娘リツパの間に生まれたメフィボシェテで、今日のサウルの孫、ヨナタンの息子のメフィボシェテとは別の人物です。

(1)滅んで当然の人物
メフィボシェテはサウルの血筋を引く人物です。当時は王家が新しくなったら、前の王家の者は皆殺しにされるという運命にありました。しかし、メフィボシェテはダビデとヨナタンの固い愛の契約から、お互いの子孫を滅ぼさないという契約を結びました。
そして実際に、ヨナタンの息子、メフィボシェテに恵みを施しました。(2サム9:3)

私たちはどうでしょうか。生まれながらにして神から離れ、自分勝手に生きている者です。エペソ2:2-3にあるように、空中の権威者の中で歩んでいた者です。その行きつくところは永遠の滅びしかありませんでした。

しかし、憐れみ豊かな神は大切なひとり子、イエス・キリストをこの地に送ってくださり、私たちに救いの道を開いてくださいました。私たちも恵みを施された者として、今一度十字架の救いの恵みに感謝したいものです。

「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──」(エペソ2:3-5)

(2)不毛の地に住む者
2サム9:4によると、メフィボシェテはロ・デバルという地方に住んでいたようです。場所はヨルダンの東北あたりです。そして、意味は「不毛の地」です。言い換えれば荒野です。
しかし、ダビデの好意によって、メフィボシェテはエルサレムの王宮へと移されました。それだけでなく、王の食卓に着き、何不自由なく生活できることが保障されました。

私たちの生活でも「働けど働けどわが暮らし…」というような状況かもしれません。確かにエデンの園を追放された時、土地は呪われてしまったので、人は額に汗して働かなければならないと言われました。しかし、このような苦難を通して私たちは成長させられます。

神様は私たちを無駄に苦しむようにはされないお方です。試練と同時に脱出の道も用意してくださっています。実際には実りを目で見てはいないかもしれませんが、霊的な世界においては豊かな実りが見えています。

「また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」(エペソ1:18-19)

(3)自分では歩けない
メフィボシェテは足がなえていましたので、自分で歩くことができませんでした。今のような医学の発達もなく、車いすなどもなかったので、移動は困難を極めたでしょう。しかし、彼には侍従の者がおり、いつも世話をしてくれました。助けを求めれば何でもしてくれるお手伝いさんがいました。問題はメフィボシェテが彼らに頼ろうとしなかったことでした。

私たちもある意味においては、まだ復活の体をいただいていないので自由にどこにも行けない存在です。ですから、主は私たちに助け主を送ってくださり、この方がいつも私たちを真理へと導いてくださるようにしてくださっています。

このお方に聞けば、何でも教えてくださいます。このお方の言われるとおりの道を歩めば(人の目に間違っているように見えてたとしても)必ず主のもとへと導いてくださいます。私たちも自分では真理に到達できないことを認め、聖霊様により頼んで歩みましょう。

「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネの福音書14:26)

■A:考えてみよう
これだけの恵みを受けているメフィボシェテの問題は何だったでしょうか?今日のみことばをもう一度読み返してみてください。

ひとつは、自分のメンテナンスをしていなかったということです。
メフィボシェテは王家に迎え入れられました。王宮に住んでいます。助けてくれる人もいます。全ての環境が整っています。伴っていなかったのは彼のアイデンティティーです。古い性質にとどまり続け、自分を主にあってアップグレードすることを放棄してしまったのです。

足は福音の備えをはく部分であります。また、奴隷ははだしですが王家は靴を履いています。この足で主と共に一歩一歩救いの達成を目指します。イエス様の御名によって、十字架の道を歩むことを拒む足に「癒されよ!」と宣言しましょう。

「また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道を作りなさい。なえた足が関節をはずさないため、いやむしろ、いやされるためです。」(へブル12:13)

また、ひげは当時の男性はみな生やしていましたが、メフィボシェテはそれを適度にそることをあきらめていました。権威者の前に出るときには、顔を洗い、ひげも髪も整え出ていくものです。ありのままの自分でいるということと、何もしないということは全く別の意味です。いつでも主の御前に出ても恥ずかしくないよう、自分を整えておきましょう。

また、着物を洗っていなかったとはどういうことでしょうか。
聖書では着物は義を意味します。自分の義を洗わなかった、つまり、みことばの洗いを受けていなかったということができます。着物を洗わないと肉のにおいが漂います。私たちは実際の選択と共に、自分が身にまとっている義の衣をいつもみことばと血潮によって洗う必要があります。

これらは自分を低く見せる日本人によくみられる姿かもしれません。
「いや、いや、私なんか…」と一見遠慮しているように見える高ぶりです。つまり、「自分でできるから主の助けは必要ありませんよ」という姿勢です。

約束の地において最後まで倒せなかった敵は「高ぶり」という名のエブス人でした。神を知ろうとしない民たちです。

また、黙示録の最後に書かれている罪のリストにはどのように書かれているでしょうか。

「犬ども、魔術を行う者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行う者はみな、外に出される。」(黙示録22:15)

メフィボシェテは自分の事を犬だと言っていました。犬とは聖書では汚れたものの象徴です。彼は新しい身分になってもなおその考え方を捨てず、新しい生き方をしませんでした。なんと不幸なんでしょうか。

私たちはイエス様の十字架によって贖われました。もう、罪の奴隷ではありません。ですから古い生き方を全て捨てて、主にある王家としての生き方をしていこうではありませんか。

主とのゆるぎない関係を築き、何でもこのお方により頼む生き方をしてきましょう。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(2コリント5:17)

■P:祈り
今日も私を愛してくださっている天のお父さん、あなたの比類ない愛をありがとうございます。永遠の滅びへの道しかなかった私に永遠の救いの道を開いてくださったイエス様、ありがとうございます。
そして、絶えず私のためにとりなし、真理へと導いてくださる聖霊様、ありがとうございます。このような素晴らしい霊的環境に置かれているにも関わらず、自分の霊的なメンテナンスを怠り、あなたの愛にこたえていなかったことを赦してください。
私は古い生き方を捨てます。御国の新しい生き方をしていきます。そのために絶えず私が神の愛に気付くことができるように助けてください。
これからの困難な時代も、主が共にいてくださるので希望に満ちています。

イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。

【 しゅん 】

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