■S:今日の聖書の言葉
サムエル記第二6章6節
★こうして彼らがナコンの打ち場まで来たとき、ウザは神の箱に手を伸ばして、それを押さえた。牛がそれをひっくり返しそうになったからである。
■O:今日のコラム
今日の箇所は有名な章です。ダビデが精鋭3万人を引き連れ、念願の神の契約の箱を自分の街に運び入れることができる日がやってきました。
けれども、ナコンの打ち場に来たところで、牛が神の箱をひっくり返しそうになり、それを押さえたウザの失敗により、神の怒りが下り、神の箱をダビデの町へ運び入れるというダビデの計画は頓挫しました。
この出来事があったナコンの打ち場。「ナコン」とは「整える」という意味であり、語根の「クーン」の意味は「安定させる、確立させる、堅くする」という意味があります。
不思議です。この章で起きたことは、どう見ても「整える、安定させる、確立させる、堅くする」といった状況とは正反対のように思えます。この、突如降った神からの中断に、ダビデ王だけでなく、集まった3万人以上の民の中に衝撃、怒り、恐れ、失望、混乱が起きたことでしょう。同じ出来事が第一歴代誌13章にもありますが、そこには以下のように記されています。
「こうして彼らがキドンの打ち場まで来たとき、ウザは手を伸ばして、箱を押さえた。牛がそれをひっくり返しそうになったからである。」(第一歴代誌13:9)
どちらも「打ち場」ということは同じですが、ここでは「キドンの打ち場」と記されています。「キドン」の語根は「キード」で、「破壊、破滅」を意味します。
「打ち場」とは、私たちにはあまり馴染みのない言葉ですが、実際は収穫してきたものをふるいにかけて、麦の穂に実のつまっているものと、そうでないもみがらとをふるいわける場所です。
私たちの人生においても、時折、このような「打ち場」を通らされます。それはまさに「破壊、破滅」と思われる痛みや失望を体験するかも知れません。
けれども、その場所で主は私たちの内側にある「実を実らせる部分」と「実を実らせていないもみがら」をふるいにかけられます。そのような「打ち場」を通らされる度に、私たちの人生には確かな収穫だけが残っていきます。
「打ち場」とは、私たちにとって、聖霊様に明け渡し、自分の内側や生き方の中にあるもみがらを、へりくだって取り除けていただく場所です。
「打ち場」に来て主の御手の介入があると、初めは「破壊、破滅」があるかも知れません。けれども、それは同時に「整えられる」ことの始まりであることを覚えます。神が愛する者になされる「破壊、破滅」の目的は、「確立させる」ためであることを覚えます。
ダビデが神の箱をダビデの町に運び入れる計画は頓挫しました。計画は変更して、神の箱はオベデ・エドムの家に運ばれました。王としては面目の立たない状況です。計画通りにいかなかった、失敗したように見えるこの決断はダビデ王としても恥をしのいでの決断だったかも知れません。けれども、ダビデはそのような主の成されている「破壊」を、見栄をはって隠すことをしませんでした。また、体裁を取り繕うために、自分の計画を押し進めることもしませんでした。
神の御手の介入があった時、計画は頓挫するかも知れません。まわりには失敗に見えるかも知れません。けれども、自分の面目を保とうとしなかったダビデのように、思い切って、自分の計画を中断して神に明け渡すなら、主が最善の道、最善の時を用意してくださると信じます。
■A:考えてみよう
もし、今日、人生の「打ち場」を体験しているなら、焦ったり見栄を張ったりして自分の計画を押し進めることを一旦主に明け渡し、たとえ周りに「失敗だった。破滅だ。」と言われても、またたとい自分自身でさえも「終わりだ」と思えても、一時中断し、主の用意された「打ち場」でふるいにかけられることを良しとしましょう。
それは「整えられる」ためであり、「確立させる」ことのスタートであり、実り多き歩みとなるためのものであることを今日、覚えたいと思います。主は良いお方です!共に主のなされることに信頼し委ねていきましょう。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 みちる 】
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