■S:今日の聖書の言葉
詩篇142篇2節

★私は御前に自分の嘆きを注ぎ出し、私の苦しみを御前に言い表します。

■O:今日のコラム
ダビデの歩みを見るときに、たくさん尊敬するところがありますが、中でも私が個人的に尊敬するのは、彼はいつも「主の御前に出続けた」ということです。

今日の箇所にもあるように、彼はどのような状況、場面、歩みの中にあっても、最終的にはいつも主の御前に出ることを選び、主の御前で歩んだ人物でした。

「私は苦しみの中に主を呼び求め、助けを求めてわが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、御前に助けを求めた私の叫びは、御耳に届いた。」(詩篇18:6)

「あなたは、私のいのちを死から、まことに私の足を、つまずきから、救い出してくださいました。それは、私が、いのちの光のうちに、神の御前を歩むためでした。」(詩篇56:13)

他の様々な箇所をみると、ダビデが羊の番をしているときから、主の御前に出ていたことが分かりますが、彼はたとえ罪を犯した中であっても主の御前に居続けることを求めました。

「私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。」(詩篇51:11)

バテ・シェバとの間で姦淫の罪を犯したときも、初めは主の前に出ずに、罪を隠すために様々なことをしました。しかしナタンが主からの言葉を告げたとき、彼は逃げるのでもなく、隠れるのでもなく、主の前に出ることを選び、主の御前から私を投げ捨てないでくださいと告白しました。

彼の中では、自分の面子などよりも主を失うことを何よりも悲しいことだと考えたのでしょう。このような歩みをみるとき、ダビデの中にはいつも主ご自身を求める心があったことが分かります。この心、このあり方こそが主の前でのあるべき姿だと思わされました。

ダビデの幕屋で仕えていたアサフは主に仕えない者たちが反映するのを見て嘆き、むなしさを覚えました。しかし、彼が主の御前に進み聖所に入ったとき、本当の幸いと報いは主ご自身であることを知りました。

放蕩息子は父の家を出て自分の楽しみのために生きましたが、あるとき父のところに戻ろうと決心して戻ったとき、彼のアイデンティティー、生き方は変わりました。

私たちの歩みでは様々なことが起き、ときに行き詰まり、主から離れるときがあるかもしれません。また主を求めていても、ある程度のところで求めることをやめてしまっているときがあるかもしれません。

しかし聖書に出てくる信仰の先輩たちが主の御前に出ること、主を求め続けることを選んだように、私たちもどんなときであろうと主の御前に出る者であろうではありませんか。

他の何ものでもなく、主ご自身を求め、この方を拠り所とし、この方を私たちの住まいとしていきましょう。

「それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。」(詩篇91:9)

「それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。」(使徒3:20)

■A:考えてみよう
・どのような状況においても、主の御前に出ることを選べているだろうか。
・主以外のものを拠り所としていないだろうか。

■P:祈り

愛する主イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 たくみ 】

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