■S:今日の聖書の言葉
テサロニケ人への手紙第一5章16~18節
★いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
■O:今日のコラム
これが、キリストにあって神が私たちに望んでおられることである、とありますが、ギリシャ語で見ると「これが」は「これこそが」とかなり強い表現で書かれているそうです。
良い時でも感謝する習慣がないと感謝できないものです。ぜひ感謝の習慣を身につけましょう。
そうすると好ましくない状況で、感謝するか?感謝しないか?という選択の機会が増えてきます。以前ならば間違いなくため息の場面であっても「これも感謝すべきか?」という思いが湧いてくるようになるのです。
それでも感謝できる理由がないと私たちは、なかなか感謝できません。でも実は私たち信仰者には、神に感謝できる理由があります。それは神からいのちを与えられているからです。神から愛されているからです。それはいつも変わらず存在する祝福なのです。あったりなかったりするものに理由を置くなら不安定になってしまいます。
喜ぶこともそうです。主が共におられることのゆえに喜ぶのです。
私は妻と二人の子どもの父ですが、家族と過ごしていると何をするという訳でなくても幸せを感じます。何かを喜ぶことも良いのですが、主を喜ぶことはとても良いことです。ネヘミヤ8章10節の別訳は「主を喜ぶことは私たちの力です」なのです。
また祈りの生活は、神との交わりを概念を超えて、生きたものとし、自分の生活そのものとしていきます。
私たちは主に愛され喜ばれている神の子どもです。全てのことは愛されているがゆえに起きていることを認めるなら、それは感謝の理由になります。
この前の休みに、私が子どもが壊したおもちゃをドライバーを使って直していました。直し終わって工具箱を持ち上げると留め金が外れ、中のネジやナットなどが部屋中にバラまかれました。何でこうなったかは分かりませんでしたが、ただわかっているのは、神は私を愛しておられることです。
「私には理解できないが何かから守られたのかもしれないですね。主よ。感謝いたします!」と告白し、ネジを拾い始めました。家族は「頭は大丈夫?」という顔をしましたが、ネジ拾いの時間も私にとってはイラだちの時間ではなく、喜びの時間でした。
私に理解できなくても、私は愛されていることだけは間違い無いのです。神の愛は人知を遥かに超えているのですから、私が全部を理解できないのは当然なのです。
■A:考えてみよう
主ご自身を喜び、祈りの生活を身につけましょう。そして感謝する習慣を身につけましょう。悪感情に向かってしまいそうな時こそ、主に愛されている者としての感謝のいけにえを捧げましょう。
■P:祈り
いつも喜び、絶えず祈り、全てのことについて感謝する者とならせてください。主を喜ぶことは私の力です。主との交わりを教えてください。私の理解を遥かに超えた神の愛、神の守り、神の導きのゆえに感謝したします。
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 まじまこ 】
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