■S:今日の聖書の言葉
マルコによる福音書10章17~18節

★イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」
イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。

■O:今日のコラム
この一年で、私たちの住む世界はあっという間に変わってしまいました。
最初の緊急事態宣言が出された時の事を覚えているでしょうか?トイレットペーパーやレトルト食品などがあっという間に売り場から消えてしまいました。いくらお金を積んでも商品を手に入れることができない時でした。

しかし、もしそのような時に、人とのつながりがあったらどうでしょうか?お隣さんや知り合いが「私、トイレットペーパー多く持ってるから少し分けてあげるね」と分けてくれることも可能でしょう。
これからはお金やモノが主流だった世界から、人と人のつながりが重要な時代になってくるのかもしれません。

今日の聖書の個所では、ある青年がイエス様の所に走り寄ってきます。この青年はいわゆる律法学者やパリサイ人のように、イエス様を試そうとしているのではないということがうかがい知れます。

この青年は切実な疑問を持っていました。それは「永遠のいのち」に関してです。この青年はイエス様を尊敬していました。そして、この方は答えを持っているという確信を持っていたのでしょう。その事が青年をイエス様のところにまで走らせたのではないかと思います。

この青年はイエス様に問います。
「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」

これは、多くの人が抱く疑問でしょう。特にコロナ禍で世界が一変し、今までの自分の常識が変えられてしまった今、多くの人が本当の救いを求めているのではないかと思います。

それでは、この青年の言動を注意してみてみましょう。彼は永遠のいのちを求めていました。そして、それを自分のものとするために、何をしたらよいかと聞いています。分かりますでしょうか。この青年は行いによって救いを得ようとしました。

そこで、イエス様は答えます。
「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。」

イエス様は「事」から「方」に青年と私たちの霊的な視点を移します。この概念は非常に重要なことです。

救いは良い行いによって得られるのでしょうか?考えてみてください。

例えば家から教会まで100往復して救いは得られるでしょうか?富士山の山頂まで、歩腹前進で登頂したら救われるでしょうか?滝に1週間当たり続けたら救われるでしょうか?

残念ながら、人は行いによっては救われません。人の努力は救いには及びません。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2:8-9)

私たちが救われるのは神からの一方的な恵みによるのです。私たちの努力を通して得たものではありません。
イエス様の所に走り寄ってきた青年は自分の努力で救いを得ようとしたのです。そんな青年にイエス様は「尊い方は、神おひとりのほか、だれもおられませんよ」と言われました。
つまり、自分の行いで救いに到達しようとするのではなく、良い方ご自身を求めなさいと言われました。

それでは、どのようにしたら私たちは救いにあずかることができるのでしょうか。

「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:9-10)

心で「イエス・キリストは私の罪のために十字架にかかり、死と葬りと復活を経て、私の主となってくださった」と信じ、それを口で告白するなら救われます。永遠のいのちが与えられます。
どんなにお金を積んでも、善行を積んでも、人がうらやむようなキャリアを持っていても得られない、永遠のいのちというものは、イエス・キリストを信じ、告白することで無償で私たちに与えられるのです。

この後、青年はこの事実を知っても、イエス様のみことばに従うことができませんでした。永遠のいのちと自分の持っている財産を天秤にかけ、自分の財産を選び取ってしまいました。

■A:考えてみよう
イエス様の御声、つまり聖書のみことばに従えているだろうか。もしくは、従いたいと願っているだろうか。

救いはイエス様を信じることで、ただで受け取ることができます。しかし、それで完了ではありません。その先が重要です。イエス様を信じた後、この方とどのような関係を持ち、どのように歩んだかということです。

救いはイエス様を信じて終わりではありません。努めて達成していくものです。

「そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。」(ピリピ2:12)

つまり、イエス様を信じるためには人の努力は何の助けにもなりませんが、イエス様を信じた後はイエス様と共に救いの達成のために行動する必要があるということです。
イエス様がいのちをかけて私たちを贖い、愛してくださったその愛に応答するという行動です。このことを理解するなら、先ほどのエペソ2:8-9と次のみことばの意見矛盾して見えることが理解できます。

「人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。」(ヤコブ2:24)

エペソの方は信じる前、ヤコブの方は信じた後の事を言っています。

もう一つ、青年は「事」にばかり目を向けていました。イエス様がしてくださる「事」にだけ注目しているのであれば、サタンに足元をすくわれてしまいます。もちろん、イエス様がしてくださることのゆえに感謝することは素晴らしいことです。しかし、その「事」ばかりに目を留め、喜んでいてはいけません。どんな時でも私たちが目を離してはいけないのは最も尊いお方、父、子、御霊なる主です。

「主は仰せられた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。
地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。」(1列王記19:11-12)

大きく時代が動き、環境が変わろうとする今こそ、目の前に起こる出来事に注目するのではなく、かすかな細い声に耳を傾けましょう。周りの状況に飲み込まれてしまうのではなく、自分と神様との関係の中でみことばから答えを受け取っていきましょう。

主はいつも良いお方です。

■P:祈り
今日も私を愛してくださる天のお父さん、あなたの大きな愛を感謝します。私の弱さを知ってくださっている主よ、どうか目の前に起こる出来事によって私が恐れてしまわないよう、助けてください。私が恐れるのはただたましいを生かすことも滅ぼすことができるお方だけです。
大きな時代のうねりの中に入れられている今こそ、あらゆる出来事に目を奪われてしまうのではなく、信仰の創始者であり完成者であるあなたから目を離すことがないように助けてください。
今一度十字架の救いの恵みに立ち帰ることができますように。そして、何が起ころうとも変わらず祈りとみことばの生活を続けることで、あなたとの生きた関係を築き上げていく努力ができるよう、助けてください。
主はいつも良いお方です。主は一人ひとりに最高のご計画を持っておられるお方です。周りの意見に流されることなく、あなたの御声を聞き分ける耳を与えてくださいますように。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 しゅん 】

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