■S:今日の聖書の言葉
マルコによる福音書8章23〜25節
★イエスは盲人の手を取って村の外に連れて行かれた。そしてその両目につばきをつけ、両手を彼に当てて「何か見えるか」と聞かれた。すると彼は、見えるようになって、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます」と言った。それから、イエスはもう一度彼の両目に両手を当てられた。そして、彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになった。
■O:今日のコラム
ここの箇所は、目の見えない人がイエス様の奇跡によって目が見えるようになったという箇所です。
聖書の中には、このようにイエス様が奇跡をなされた事が何回か出てきますが、これは私たちの肉体も神様の御手の中にあるという事を表しています。イエス様はこの奇跡を通して、その事を表されたんです。
そしてイエス様は、私たちの身体の目を開いてくださるだけではなく、心の目をも開いてくださるお方である事を感謝します。私たちの心の目が見えなくなっているところにも関わってくださり、見えるようにしてくださいます。これがイエス様の癒しの力であることを信じます。
ヨハネの福音書でイエス様は、
「『わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。』」(ヨハネ9:39)
と言われています。これは、イエス様が来られることによって何も見えていなかった人が「そうか!そうだったんだ!」と見える様になり、「私は何でも知っている。」という人が、「私はなんでも知っていると思っていたけれど、本当は何にも分かっていなかったんだ。」と気がつくためにイエス様は来られたんだという事が書かれています。これが心の目が開かれるという事です。
今日の箇所で盲人は「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます」と言いました。そして、イエス様がもう一度両目に手を当てられると、盲人の目は段々と見えはじめ、最後にははっきりと見えるようになりました。この時イエス様は一気に見えるようにされたのではなく、段階を追って段々と見えるように癒されたんです。
これは私たちに対してもそうなんです。イエス様が私たちの心の目を開かれる時も、いきなりではなく、少しずつ私たちが分かるように導いてくださるんです。
私たちは自分の信仰生活の歩みの中で「今は順風満帆、イエス様を信じたから何の悩みも無い!」そのように全てを分かったような気になって歩んでいたと思っていたら、次には「もしかしたらイエス様は私と一緒に歩んでくれていないかもしれない。やっぱり自分は分かっていないかもしれない。」そのように思うことがあるかもしれません。
しかしイエス様はそのような時に、もう一度と言わずに何度でも私たちに触れてくださり、心の目を開いてくださるお方である事を感謝しようではありませんか。
■A:考えてみよう
イエス様は、私たちがはっきりと見えるようにしてくださいますから、私たちはこのお方を信頼し、御前に進み出て、全てを明け渡して、イエス様に目を開いていただこうではありませんか。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 てる 】
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