■S:今日の聖書の言葉
詩篇124篇2節
★もしも主が私たちの味方でなかったなら、人々が私たちに逆らって立ち上がったとき、
■O:今日のコラム
詩篇124篇4-5節には大水が押し寄せ、私たちを押し流す様子が描かれています。まるでノアの時代の洪水のようです。洪水は全てのものをさらいます。私たちは大水に流されるのではなく、ノアたちのように流されない者にならなくてはなりません。(マタイ24章37節 参照)
そのために、どうして大水に流されてしまう者になってしまうのかを今日の箇所から共に見ていきたいと思います。
詩篇124篇2節を原語から見てみると、「もしも主が私たちの内におられなかったなら、人が私たちに逆らって立ち上がったとき」とも訳せるそうです。そのために、私たちの内側に主ではなく人がいるのであれば、大水に流されてしまうという視点を持つことができます。またマタイには、わたしのことばを聞いて行わない者は洪水に流されてしまうと書かれています。
「また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」(マタイ7:26-27)
つまり、私たちの内側に主ではなく人の性質があり、主のことばを聞いて行うことができない者が大水に流されてしまうということになります。自分の内側に人間的な性質があるならば、御言葉に対して自分に都合の良い解釈や今まで持っていた理解、表面上での理解となり、「わたし」のことばを聞くことができないのです。
ですから、この変化の激しい時代の中で、私たちは今一度自分を吟味していきましょう。そして、今日も主の前に出て立ち止まり、主の語りかけに耳を傾けていきたいと思います。もう何回も聞いたからとか、もうこの御言葉はこういう意味だという自分の握っているものを今一度脇におき、主を心の王座にお迎えしましょう。新しい心を持って今日も聖霊様によって主の計画を悟ることを求めていきたいと願います。
「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。」(1コリント8:2)
■A:考えてみよう
・主の御言葉を聞けているだろうか?
・御言葉を読む時に、御言葉をイエス様のことばとして、レーマとして受け取ることを主に願っているだろうか。
・自分勝手な解釈をしていないだろうか。
私たちは主にあって心が開かれる必要があります。心の目がはっきり見えるようになり、主にある望みがどのようなものであるかを知ることをパウロも日々切に祈っていました。(エペソ1:17-19参照)
私たちも今日という日に主の御心を悟りそれを行っていくことができますように!この変化の激しい時代に朽ちることのない御言葉が与えられていることに心から感謝します。
「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがないい。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。」(1ペテロ1:24-25)
■P:祈り
主よ。今日もあなたの御言葉が与えられていることを心から感謝いたします。これは当たり前のことではなく、本当に主の恵みです。
私たちが御言葉を読む時や聞く時に、自分が中心にいるが故に都合の良い解釈や表面上の理解に留まっていたことを赦してください。
今日新しく主を心の王座にお迎えします。主が語られることばを聞く者とさせてください。自分の努力や頑張りではなく、知恵と啓示の御霊なる主が私たちの耳や心を開き、主の御心へと導いてくださることを心から感謝します。
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン!
【 まこと 】
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