■S:今日の聖書の言葉
詩篇122篇6節a
★エルサレムの平和のために祈れ。
■O:今日のコラム
何年も前にイスラエルに行った時、メシアニックジュー(イエス・キリストを信じるユダヤ人)の兄弟と交わる機会がありました。その時に御言葉について色々と話しました。どのような流れで、ここの御言葉に至ったのかは覚えていないのですが、彼がこの一節に関して語っていたことを、とてもはっきりと覚えています。
「この『エルサレムの平和のために祈れ。』とは、実際は『エルサレムの平和のために祈り続けよ。』という意味です。」
ただ「祈る」のではなく、「祈り続ける」
このことは、山上の垂訓でイエス様も同じことを語られています。
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」(マタイ7:7,8)
もともとの原語に近い詳約聖書においては、次のように書かれています。
「求め続けよ。そうすれば与えられる。捜し続けよ。そうすれば見いだす。うやうやしくたたき続けよ。そうすれば戸は開かれる。だれでもみな求め続ける者は受け、捜しつづける者は見いだし、たたき続ける者は戸が開かれるからである。」
イエス様のお言葉から分かるように、「100%祈りの答えを受け取る者」とは、「祈りの答えを見るまで祈り続けた者」なのです。私たちが祈る時に求められるのは、「結果を見るまで失望せずに継続し続けること、諦めないしつこさ」であることです。
イエス様はルカの福音書18章で「しつこいやもめ」のたとえを話されました。
「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください』と言っていた。
彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない』と言った。」(ルカ18:2-5)
イエス様は何のためにこのようなたとえで話されたのでしょうか?この章の1節にはっきりとこう書かれています。
「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。」(ルカ18:1)
そうです。「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために」この『しつこいやもめ』のたとえを話されたのです。
■A:考えてみよう
地上においては、しつこい人は嫌がられますが、私たちは祈りにおいてはどこまでもしつこく祈り続けましょう。
「エルサレムの平和のために祈り続けよ。」
私たちの内なるエルサレム、内なる人がキリストの身丈にまで成長すること、私たちの内にキリストのご人格が大きくなることを祈り求め続けることを、主は願っておられます。私たちの肉の性質、罪の性質が死にキリストが生きるようにと祈り求めることを主は私たちに願っておられます。
愛せない人を愛することができるようになるまで祈り続けましょう。
赦せない人を赦せるようになるまで祈り続けましょう。
私たちの内に、人々がキリストのご人格を見るようになるまで祈り続けましょう。
私たちはあきらめないで祈り続け「100%祈りの答えを受け取る者」となりましょう!
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 みちる 】
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