■S:今日の聖書の言葉
サムエル記第一25章23〜24節

★主は、おのおの、その人の正しさと真実に報いてくださいます。主はきょう、あなたを私の手に渡されましたが、私は、主に油そそがれた方に、この手を下したくはありませんでした。きょう、私があなたのいのちをたいせつにしたように、主は私のいのちをたいせつにして、すべての苦しみから私を救い出してくださいます。

■O:今日のコラム
ダビデは、自分の存在を苦しめ、命を狙って追いかけ続けて来るサウルを打つチャンスが訪れた時、サウルを打つ事なく主の御前に誠実を尽くしました。それはサウルが良いか悪いか、正しいか間違っているか、自分に利益があるか無いか、という事に基づいて行動したわけではなく、サウルを王として立て、油注がれた主をおそれかしこむが故の選択でした。

私たちの人生で同じような状況が起こった時、私たちはどう行動するでしょうか。実際に剣で打つという事はなくとも、言葉の剣で打ち、批判するというのはあり得る事です。例えば会話の中で職場の上司や、教会の牧師やリーダー、または街の知事や国の首相やリーダーの批判や、うわさ話し、訴える言葉を聞いた時どう反応するでしょうか。

私たちも同じように悪口を言って批判することも出来ますが、その会話から離れ、批判する代わりにとりなし祈ることも出来ます。たとえそれが国のリーダーという私たちの生活からは遠く離れた存在であったとしてもその人々を立てたのは主である事を覚える必要があります。

「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。」(ローマ13:1〜2)

だからと言って私たちは全てのことに盲従することを求められているわけではありません。上記の御言葉を間違って使うなら教会は恐れに縛られてカルト化して行くでしょう。時には様々な事情がありリーダーとの関係が難しくなった時、ダビデがサウルとの関係で行ったように物理的な距離を空けることも必要な選択です。

それと同時にダビデがサウルに対して正しい態度をとったように、自分の手で打たない。ということが重要です。リーダーを主がお立てになったのであれば、そのリーダーを正しく裁くのも主の御手によることです。私たちが選択するのは主の力ある御手と主のタイミングに裁きを委ね、むしろ善意と祝福をもって悪意に打ち勝って行くことです。

国や街のリーダーたちに対しても主がその人々をお立てになったからと言って、その政策の全てに合意し、賛成出来るわけではありません。しかし、たとえ主に反する悪のリーダーが立てられた時も私たちのすべき責任は国のリーダーの為にとりなし祈り、神の国の介入が国家にもたらされるのを願うことです。皇帝ネロや神に反するリーダーたちが立てられた時代の中においても、使徒パウロは教会にこう勧めています。

「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」(1テモテ2:1〜4)

今日私たちの口を批判と訴えではなく、とりなしの口として神の国の為に用いていただくことを願いましょう。

■A:考えてみよう
あらゆる領域において立てられているリーダーたちを覚えて、彼らの名前を挙げてとりなし祈り、祝福を宣言しましょう。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 しんご 】

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