■S:今日の聖書の言葉
詩篇119篇59節
★私は、自分の道を顧みて、あなたのさとしの方へ足の向きを変えました。
■O:今日のコラム
続けて、詩篇119篇から御言葉を愛することを学んでいきます。
今日は「イエス様が現れる人生」というタイトルで、3つのポイントを分かち合います。
(1) 自分の道を顧みる
最近、 これは私自身が悔い改めて学んだことです。毎日祈り、御言葉を読んでいますが、忙しさの中で静まって自分の道を顧みることを怠っていました。
それを示されたのは先月、日曜日のセルで御言葉を黙想する時間を持っていた時でした。御言葉をゆっくりと黙想する中で、自分の思い・考え、歩んでいる道が主の御言葉から離れていることに気付かされたのです。目指している先が自分の願いであること、主の御言葉を知っていながらも自分の思いを優先していました。
自分の道を顧みないと、知らず知らずの内に主の御心から離れてしまいます。特に忙しさがその要因の一つです。しかし、祈りと御言葉の中で自分の道を顧みると、聖霊様がその誤りを教えてくださいます。そして悔い改めの恵みへと導かれます。
静まって、自分がどこに向かっているのか?誰の声に従っているのか?と自分の歩む道を顧みることは、正しい道に向かう最初のステップです。
(2) 主の御言葉に向きを変える
もし私たちが誤った道を歩いていると気が付いたら、次のステップは主の御言葉に向きを変えることです。
「それから、私に杖のような測りざおが与えられた。すると、こう言う者があった。『立って、神の聖所と祭壇と、また、そこで礼拝している人を測れ。』」(黙示録11章1節)
この御言葉はちょうど1週間前のマナメールで分かち合われたものですが、この『測りざお』という言葉の本質は尺度や基準を表すものであり、神の御言葉を表しています。すなわち、主は礼拝している人を御言葉によって測られます。人間の目から見てどれだけ素晴らしいかではありません。
したがって、私たちは人間の評価や世の価値観ではなく、いつも主の御言葉によって測られることがとても大切です。
先ほど日曜日のセルで御言葉を黙想する時間を持っていた話をしましたが、その時は黙示録4章でした。そこには天の礼拝が書かれています。すべてのものが主の御座にひれ伏し、主を賛美していました。天の礼拝では主の御座がすべての中心です。一方、地上での自分の人生を顧みると、どのような姿でしょうか。私は主の御座が人生の中心にはなく、自分自身の願いが中心にありました。私の幸せ、私の経済の祝福、私の夢、これらが中心にあり、そこから日々何を選び行動するかが決まっていたのです。
私は天の礼拝と同じように、地上での人生を主の御座を中心とした礼拝として献げたいと願い、悔い改めました。その時、主の恵みと平安が内側に満ちることを感じました。
主の御言葉は正しく、私たちがそこに向きを変えることは喜びであり、恵みです。
(3) 歩みの中にイエス様が現れる
最後に、私たちの歩みを主の御言葉に向きを変えるならば、どのようなことが起こるでしょうか?次の御言葉に目を留めます。
「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。」(ヨハネ14章21節)
私たちが主の御言葉を保ち、それを守るならば、イエス様が人生に現れてくださいます。私たちを愛し、慰め、励まし、御心を語ってくださいます。
またイエス様が現れることは、私たちが関わる人々に救い主を示すことになります。それは私たちが頑張ってイエス様を証したり、イエス様の性質を表す以上に、イエス様御自身が人生を通して現れてくださり、主であることを明らかにしてくださるのです。これは本当に大きな恵みです。
私自身、まだ救われていない家族や友人、職場の方々がイエス様を信じることを願い祈っています。しかし、どうやったら福音を伝えることができるかわからず葛藤することがあります。
ですが、この御言葉を受け取った時、私の頑張りによって成すのではなく、イエス様ご自身の現れに委ねれば良いのだと悟りました。私は御言葉を愛し、それを守ることに専念すれば良いのです。
共に日々自分の道を顧みて、御言葉によって変えられる歩みを今日も励んでいきましょう。
■A:考えてみよう
・自分の道を顧みていますでしょうか?
・主の御言葉に向きを変えていますでしょうか?
・歩みの中にイエス様が現れていますでしょうか?
■P:祈り
御言葉を愛することを教えてくださり、感謝します。
今日も自分の道を顧みて、御言葉に足を向きます。どうぞイエス様がこの人生に現れてください。
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 あさひ 】
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