■S:今日の聖書の言葉
ヨハネによる福音書15章5~12節

★わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。
あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。
もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

■O:今日のコラム
私たちは実を結ぶ者として定められています。その実は愛の実であり喜びの実です。そして平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制など多くの実を実らせることを感謝いたします。

そのために守るべきことは、キリストの律法である「イエス様から愛されたように、人々を愛する」中にとどまることです。この教えにとどまる時に御霊の実は実っていきます。

私たちは、この決定的な部分に関しては誰しも文句なしに素晴らしいと言うと思います。しかしこのことは、その前提である主ご自身にとどまること、主の語られた言葉(この言葉という語にはレーマ、御霊の力を帯びた主の語られた言葉というギリシャ語が使われています)にとどまることを抜きにして語れないことを忘れてはならないのです。

主の御前にとどまる習慣を持つことなしに人を愛するなら、私たちの中の愛は枯渇していきます。苛立ち、疲れ果て、続かないのです。なぜなら愛の源泉は御霊にあり、御霊を通して神の愛は注がれるのだからです。(ローマ5:5)

また御言葉に教えられて私たちは、どのように愛するのかを示されていきます。そうでないと間違った愛し方をすることがあり得るのです。またそうして主の御前にとどまるなら、主の語りかけを頻繁に受け取るようになっていくでしょう。人はパンのみによって生きるのではなく、主の御口から出る御言葉(レーマ)によるのです。

ベタニヤのマリヤが主の御前にとどまったことを覚えなければなりません。主はそれをどうしても必要なただ一つのこと、と語られたのです。

ヨハネ7章でイエス様は、「いつもわたしの元に来て、いつも飲みなさい」と語られました。これは主ご自身が語られるレーマ、いのちの水、真理のことです。この水に潤されて私たちは実り豊かな者となるのです。

■A:考えてみよう
一般の科学者は習慣がその人の人格を変えるのだ、と言います。私たちが主の御前にとどまる習慣、聖書を朗読する習慣、異言で祈る習慣を持つことは私たちを実り豊かな者に造り変えていきます。

また主から愛されているように人を愛する習慣を身につけましょう。その時に御霊の実が実っていくことを感謝いたします。

■P:祈り
主よ。あなたにとどまることを更に教えてください。御言葉にとどまることを更に教えてください。あなたの愛にとどまることを更に教えてください。実り豊かな者になることを感謝いたします。喜びが満ち溢れるというあなたの約束を感謝いたします。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 まじまこ 】

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