■S:今日の聖書の言葉
ヨハネによる福音書13章8節
★ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」
■O:今日のコラム
今日の箇所を読む時に、一つの御言葉が心に浮かびました。
「しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」(マタイ7:23)
どれだけしるしや不思議を行ったとしても、父の御心でないのであれば、神様は私たちのことを「知らない」と言われるのです。(マタイ7:21-23参照)ここでは、どれほど父の御心を行うことが重要なのかと言うことをとても考えさせられます。
これを踏まえた上で今日の箇所ではどうでしょうか。足は水で洗います。水とは聖書では「真理」「御言葉」のことを示しています。御言葉という水の洗いによって、私たち教会はきよめられます。
「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、」(エペソ5:26)
しかし、イエス様が洗わないのであれば、私とは関係がないと主は言われるのです。
マタイ7章23節を見る時に、父の御心を行うことと主が洗うことは、主との関係をもつ事において関連があるのではないでしょうか。
自分で洗うのであれば、御言葉を自分の都合の良いように解釈するなど、イエス様のことばとして受け取ることはできません。自分が偶像となり、御言葉を悟ることができないからです。
「彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。口があっても語れず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。」(詩篇115:4-6)
しかしイエス様によって心開かれる時に、私たちは御言葉を生きたイエス様のことばとして、レーマとして受け取ることができます。父の御心を悟ることができるのです。
「そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、」(ルカ24:45)
つまり御言葉をどのように受け取り父の心を悟ることができるかが、イエス様が足を洗うこと、そして神様から評価される者となることにつながるのではないのではないでしょうか。
私たちは御言葉に対しては覆いがかかっているのです。主にあって心が開かれる必要があります。心の目がはっきり見えるようになり、主にある望みがどのようなものであるかを知ることをパウロも日々切に祈っていました。(エペソ1:17-19参照)
主によって心が開かれ、御心という真理の水の洗いを受けることを求めていきましょう。父の心だけを求めて、主からの本当の評価を受けることができますように。
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」(マタイ7:21)
■A:考えてみよう
・御言葉をどのように受け取っていますか。
・御言葉を読む時に、御言葉をイエス様のことばとして、レーマとして受け取ることを主に願っているだろうか。
主が覆いを取り除けてくださり、真にイエス様による水の洗いを受け取ることができますように。
「しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。」(2コリント3:14)
■P:祈り
主よ。今日もあなたの御言葉が与えられていることを心から感謝いたします。これは当たり前のことではなく、本当に主の恵みです。
私たちが今日も御言葉を読む時に、新しい心を与えてください。主によって心が開かれて、真に御言葉の洗いを受けとることができますように。父の心を悟り、それを行うことを通して、主からの本当の評価を受け取ることができますように。
自分の努力や頑張りではなく、知恵と啓示の御霊なる主が父の心へと導いてくださることを心から感謝します。
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 まこと 】
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