■S:今日の聖書の言葉
ヨハネによる福音書4章3~4節
★主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。
しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。
■O:今日のコラム
当時、ユダヤ人の男性、わけてもラビ(教師)と呼ばれる立場の人が、異邦人の女性に話しかけることは異例でした。その上、ユダヤ人はサマリヤ人を「汚れている民族」として見下し、嫌っていました。
そのような背景の中で、イエス様がわざわざサマリヤを通り、わざわざサマリヤの女性に話しかけられたことには、大きな主のご計画がありました。
イエス様がそこまでして示そうとされた真理を今日は3つのポイントで見ていきたいと思います。
1.水
サマリヤの女は肉体が生きていくために必要な水を汲みにここに来ました。
「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』」(ヨハネ4:13,14)
イエス様が、このサマリヤの女に伝えたかったこと。それはいずれは朽ちていく肉体の生命維持に必要な水(この地上のもの)ではなく、あなたに必要な水は、永遠のいのちを保つための主が与えてくださるまことの命の水である、ということでした。
「わたしに水を飲ませてください。」(ヨハネ4:7b)
イエス様がサマリヤの女に呼びかけられたこの意味は「あなたが生きていくために必要だと思っている大切なものを私にくれないか?」でした。
私たちが、この地上でこの肉体が生きていくために必要だと思っているもの、この地上で「これがなくてはならない」と思っているものを主に差し出し、その代わりに渇くことのない主ご自身を求めるようにと、今日も主は私たちに呼びかけてくださっています。
2.夫
「イエスは彼女に言われた。『行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。』」(ヨハネ4:16)
この時代、女性の方から離婚をすることは出来ませんでした。何を意味しているのでしょうか。
このサマリヤの女は5人の夫に捨てられたということです。本来、自分を愛し養い守ってくれるはずのかけがえのない存在から少なくとも5回、見捨てられたのでした。。。
聖書はキリストと教会の関係を、夫と妻にたとえています。異邦人の女、地上のもので渇きを満たそうとしていた女、何度も見捨てられた女。ここに映し出されているのは私たち異邦人の教会の姿です。
「女は答えて言った。『私には夫はありません。』」(ヨハネ4:17a)
私たち教会が本来の夫でない相手を「夫」として慕い、身を捧げても、そこからまことの幸い、変わらない永遠の愛を受けることは出来ません。
3.礼拝者
この後、イエス様とサマリヤの女の会話が礼拝へと展開します。
「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。」(ヨハネ4:23)
イエス様の心にいつもあったのは父なる神の御心と御父の願いでした。その一番重要な事柄、天の父が求めておられることが何であるかを、なんとイエス様は異邦人の女に明かされたのです!私たちはこの偉大な真実を、異邦人の教会に与えられた特権として受け取りたいと願います!
父なる神が探しておられるもの、それは大きな美しい礼拝所(もちろんそれも大切で素晴らしいものです!)や建物ではなく、「礼拝者」であることを、今日も覚えたいと願います。主はなぜ「礼拝者」を求めておられるのでしょうか?
私たちが捧げる真の礼拝、祈りの香は、主にとってかぐわしい香りであり、そこでこそ主は憩うことが出来るからです。主は今も、ご自身が憩うことの出来る所を探しておられます。
「わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。」(イザヤ66:1b)
一緒に暮らす家族の誰か一人でも、ストレスを抱えていたり緊張したり怒っていると家の雰囲気は暗くなります。家族がリラックスしていてこそ、自分もリラックスできます。同じように、主が憩われる場所こそ、私たちにとっての最高の憩いの場であり、また私たちが憩う時に主も憩われます。その憩いがエデンの園にはありました。
罪の介入によって損なわれた神と人との憩いの場を、創造の初めにあった神と人との愛の交わりの関係を、私たちは真の礼拝者となることによって、取り戻したいと願います。
どのようにして、私たちは「霊とまことによって礼拝する真の礼拝者」となることができるでしょうか?
シンプルです。
神の宮である私たちの自身の内側を、御霊と御言葉で満たすことによって、私たちは父の求めておられる真の礼拝者となっていくことが出来ることを感謝します!霊とまことに満ちた者が、自分自身をいけにえとして主に捧げ、主のために自分の人生を生きていくなら、それが真の礼拝となっていきます!
■A:考えてみよう
飲んだら渇いてしまう水で、渇きを潤そうとしていないだろうか?
真の夫であるイエス様に対して、私の心は純潔さが保たれているだろうか?
神の宮である私自身の内側は何で満ちているだろうか?
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 みちる 】
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